日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎また紙一重

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令和四年一月十一日撮影。画像にはごくうっすらとした影だけ。 

また紙一重

 今は幽霊たちの影を見ることもなければ、気配に驚かされることもない。写真を撮ってもさしたるものは残らぬので、ごく普通の病人生活だ。

 もちろん、見えぬ時は、先方が「魂胆を隠している」場合が多いので気は抜けない。

 カーナビで山の中の行き止まりに連れていかれる時も、途中まではまったく気配がない。ぎりぎりのところまで着くと、悪意がむき出しになる。どこをどう立ち回っても道の先が細くなる。

 

 火曜は雨だったが、病院から帰る途中、ビニール傘越しに左後ろを見ると、女が後をついて来ていた。

 「あれ」と思い、傘を外して見ると、誰もいない。

 手の届きそうな距離だったのに。赤いショールみたいなのがはっきり見えたのに。
 傘を上げて先を見ても、そこには誰もいない。

 結局は、やはり「いなくなった」のではなく、「隠れている」ということだと考え、一層、気を付けることにした。

 

 夕方になり、家人が歯医者に行くというので車で送ることになり、ひと足先に車に入り待っていた。

 すると、道の向かい側に複数の黒い影が立っている。

 気温の下がる夜の方が、赤外線を検知しやすいが、周囲との落差が生じるためだと思う。

 「幽霊が夜に出やすい」のはこのためだ。

 いずれにせよ、一般的に赤外線は可視域の外だから、よほど条件が合わねば視覚的に捉えるのは困難だ。

 

 ともあれ、すぐにスマホで撮影した。

 デジカメでフラッシュを焚けば、あらゆる意味で好都合なのだが、無いものは仕方がない。

 加えて「ちゃんと見えてるからな」と声に出した。

 画像を開けてみると、ほとんど区別がつかなくなっている。

 この辺も、「目視する時には画像には残らない」というルールに沿っている。

 

 さっき見た感じでは、左側に「黒い女」、右側にアモン系の悪縁とその手下みたいなヤツが立っていた。

 「まるでお迎えの本番が来たみたいだな」と口に出すと、すかさず、ドンと不整脈が来た。

 重い方の発症で、仮に心電図を採っていたなら、ブザーが鳴り、看護師が走って来るレベルだ。

 嫌な感触で、胸をぎゅっと握りしめられる感触がする。

 財布にニトロ錠剤を入れているので、それを取り出そうとするが、上手く出せない。

 最近は金属アレルギーのこともあり、横着をしてペンダントではなく財布に入れていた。

 「死ぬ時はこんなもんだ」とも頭に浮かんだが、やっぱりそうそう死にたくないので、「俺はちゃんとお前らを見てたからな」と伝えた。

 

 発作は案外早く終わり、二分も無かったのではないか。

 ま、本番なら、家人が来る前に昏倒しているし、そこから救急車を呼んでも間に合わない。

 心不全ならドカドカが始まってから四十分以内に治療を開始しないともはやアウト。脳梗塞も部位によるが同じくらいだ。

 面白いことに、「だるまさんが転んだ」ではないが、視線を向け、「見てるぞ」と告げると、相手の動きが止まる。

 本能というか習性というか、死んでる者も生きている者も大して変わりない。

 ピッチャーが振り返って自分を見ると、ランナーは「アウトにされるかも」と思い、元のベースに戻る。

 

 以前、「お迎え」が来た時には、相手と私の間に「目に見えぬ壁」があり、お迎えの二人は一㍍手前から入って来られなかった。

 たぶん、まだその時期ではなかった、ということだろうが、今はそのアクリル板のような壁は無くなっていると思う。

 

 ちなみに、画像だけ見ても何も見えない。

 これは私個人に関わる者で他人には縁を持たぬからだ。

 私だって、この画像ではほとんど何も見えない。

 だが、「そこにいた」と確信を持って言えるのは、「直接見た」からで、かつ、何年も前から繰り返し私の前に現れた者たちだった、ということによる。

 

 アモンの仲間は、どうやら召喚を伝えに来ているらしい。

 母子の母親役の方は、この三年くらいですっかり悪縁(霊)化して、姿かたちが崩れてしまった。

 (「母親役」というのは、本当の親子ではないから。)

 助けてやろうと思い、折にふれてお焼香をして来たが、上手くやれなかった模様だ。

 いずれにせよ、ただ見ているだけだったのに、今は接近をしようとしている。事実上、再び「お迎え」に近い立場の者に転じているということだ。

 視覚や聴覚に頼らずとも気配が分かるようになって来たことだけが頼りだ。 

 

 桜の咲く頃までに、私が病死したり、不慮の事故に遭ったり、自死していれば、それは要するに「捕まった」ということだ。

 その頃を越えられれば、たぶん、夏から秋口までは生きていられる。