日刊早坂ノボル新聞

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◎「バカボンのパパ」式科学

令和二年十一月二十三日撮影

バカボンのパパ」式科学

 昨夜たまたま、NHKBS2の「ダークサイドミステリー」をチラ見した。

 素材は米国では有名な「心霊スポット」のアミティビルの一軒家の話だ。

 いろんな映画の素材になったので、知っている人は多いと思うが、最も売れたのは『悪魔の家』だ。スピルバーグ監督の『ポルターガイスト』なんかも場所はアミティビルだから、この実話を利用した作品になっている。

 

 これは事故物件に関する実話だ。

 ある家に住んでいた家族全員が惨殺されたが、犯人はその家の長男だった。長男は「声」に導かれて、自分の家族を銃で殺した。

 その家に別の家族が引っ越したのだが、引っ越し早々に異変が現れ、家具が動いたり、人影が出るようになった。これがあまりに酷いので、その家族はその家を逃げ出した。

 ここまでは実話に沿った話だ。

 ところが、その話を後に入った夫婦と弁護士が出版して、米国のみならず全世界で書籍や映画が大ヒットした。

 

 番組ではその件について、社会学の研究者?や怪談研究家を招き、後に入った家族のホラーストーリーが「まやかし」だったと説く。

 焦点は事故物件に入居した家族が幽霊話を捏造したのかどうかに集中している。

 最初の家族の長男が聞いた「声」とは何だったのか。単なる何かの精神病や薬物などによる幻聴だったのか、あるいは実際に誰かの声だったのか。そういう基礎部分の話が無く、二番目の家族の言説が嘘と欲で出来ている。

 要はアミティビルで起きた事件の根源について考察を始めるのではなく、『悪魔の家』をネタバレさせることに集中している、ということ。

 これはまあ、別に「この世の多くが金で成り立っているのだから、事故物件を利用して金儲けにするなどということもあるだろうな」と思う。

 

 だが、あやしい点も多い。

 前提が「そもそも心霊現象は存在しなかった」という視点に立っていることだ。「無かった」ことだけを説明しようとするから、「無い」という状況証拠だけを集めているし集まる。

 これは、科学的な検証方法とは言えない。科学的とは「何らかの規則に従う」という意味だから、「ある」と前提とした論理と「ない」を前提とした論理の両面からアプローチする必要がある。

 ここで私は思わず、「出ました。これも科学を振りかざす者が使う『バカボンのパパ』式論理学だな」と口に出した。

 有名なオーツキ教授は、以前はUFOや心霊番組に呼ばれて、存在を否定する立場の側に立たされたが、よく言い分を聞くと「そういうものは存在しないからいない」と言っていた。

 「UFO(または幽霊)はそもそも存在しないからいない」

 え。それが科学なの?

 ちなみに、オーツキ教授の名誉のために付け加えると、UFOや幽霊そのものを否定する意図はなかったらしい。そこで取り上げられていた個々の具体的案件について述べていたということだ。全否定ではない。

 

 さて、この番組の中でも、ある研究家が「写真に写ったからと言って、そこに幽霊が居たことの証明にはならない」と言っていた。

 言葉の本意は「写真の中の人の姿が本当の幽霊のものかどうかは分からない」ということで、実際、後で『悪魔の家』で写真に写った少年が「スタッフの一人によく似ている」とも述べていた。

 ただ、「幽霊は写真には写らない筈だ」とも言っていたから、幽霊そのものについても否定する気持ちがあるのだろう。

 この一文だけを切り取ると、「幽霊のことについては何も知らぬのだな」と思ってしまう。

 何故眼には見えぬのに写真に写るのかと言うことについては、はっきりした理由がある(後述)。

 結局は「いないから存在しない」という同語反復の域を一歩も出ていないのだ。

 

 仮に『悪魔の家』の心霊現象を捏造だと否定できても、その起源である当初の一家惨殺事件の「声」については、何も触れない。これは「枝葉を見て、幹を見ぬ」ではないのか。

 

 私的には『悪魔の家』の後に入った家族のことは知らないし、興味がない。「いわくがあり、そういうのに影響されやすいならそこには行くなよ」と思うだけだ。

 だが、最初の殺人事件で長男を唆した「声」については、少なくない関心を持っている。

 その理由は、誰もいないところで響く「何者かの声」を私も時々聞くからだ。

 

 人と話してしている時に、唐突に相手の後ろから「コイツは本当はこう思っているぞ」という声が響く。

 「コイツには愛人がいる」「コイツは会社の金をくすねている」と、その人についての隠し事を教えてくれる。

 こういう時には、私にしかその声が聞こえない。

 あるいは、旅先で旅館の部屋に入った時に、壁越しに「助けて」「誰か助けてええええ」という声が響く。慌てて隣の様子を窺うと、そこには誰もいない。

 人気のない公園や山の中でも同じような声が響く。こういう時のは私だけでなく、その場にいた連れにもはっきりと聞こえる。

 これは一体何なのか?

 まさか、「声が聞こえたからと言って、そこに何者かがいたとは限らない」とでも言うのか?

 ここは「その声の主は誰か」を合理的に説明し、さらに同じことを再現できなくては反証にはならないのだ。

 まさか人がいないのだから「気のせい」とでも?(ww)

 

 ちなみに、その場にいない人の姿(要は幽霊)は、「カメラを通してのみ捉えることが出来る」のが普通だ。カメラは人間の可視域よりも捕捉域が広いから、人の眼には見えぬものを写す場合がある。可視域外の光と言えば、赤外線か紫外線だが、幽霊は目視、画像とも夜の方が捉えやすい。夜は紫外線が多く、また日光が無いことで赤外線量が減るから、幽霊が写る環境は「赤外線の量と強度に関係している」と思われる。

 

 幽霊を含め超自然現象などについては、「あるという理由・素材だけを探す」「ないという理由・素材だけを探す」手法のどちらも間違いだ。

 両面の素材と論理を照合させ、初めて実証的な解明に繋がる知見が得られる。

 

 人間は自身の理解力を超えたものを見ると、とにかく否定する性向があると言う。論理は関係なく、とにかく否定したくなる。

 「いないのだからいないのだ」

 「違うのだったら違うのだ」

 タリラリラーンのコニャニャチハ。

 こういう者は「バカボンのパパ」の論理から一歩も外に出ていない。