日刊早坂ノボル新聞

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◎『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が世人の考え方を一変させた

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が世人の考え方を一変させた

 モダン・ホラーの原点と言えば『シャイニング』(1980)なのだが、それ以前にホラーのみならず「ものの考え方」全般に影響を与えたホラー映画がある。

 ホラー好きの人なら、ここですぐに『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)だと気が付くと思う。

 この映画は、つい先ごろ亡くなったジョージ・A・ロメロの金字塔だ。

 彼が打撃を与えたのは、まずは「死生観」や「宗教観」だ。

 ゾンビはブードゥから生まれた「生ける死者」だが、神や正義・愛とは無縁の存在だ。

 死んでゾンビに化けると、それまでの家族や友人がその瞬間にころっと逆転して敵に回る。(これは将棋と同じ仕組みになっている。)

 「神などいない」という発想は、普通は「死ねば終わり」という文脈に繋がるのだが、ゾンビの場合はさらに進んで「死ねば敵」になる。

 

 ちなみに、映画としてのゾンビ素材の登場は、リチャード・マシスンの1954年の小説『アイ・アム・リジェンド』を最初に映画化した『地球最後の男』(1964)が起源になるようだ。

 この話は、吸血鬼を思わせるバケモノの世界の中に「一人生き残った男」の話になる。映画では、主人公の死んだ妻が墓から蘇り、自宅の玄関のドアを叩く場面がある。

 かつての妻は主人公ネビルを「食いに来た」のだった。

 ついでだが、マシスンの小説は『オメガマン』(1971、チャールトン・ヘストン主演)や、『アイ・アム・レジェンド』(2007、ウィル・スミス主演)といった映画などでリメイクされている。

 しかし、二十世紀末以降は、原作の主旨とはかけ離れた「くだらぬヒーローもの」と化した。ウィル・スミス主演の映画は本当に酷い。

 マシスンの小説を傑作たらしめたのは、食人鬼を殺し回っていた主人公が、「この世界では、俺の方が伝説の怪物だった」と気付くところだ。何時の間にか世界は「彼らのもの」になっていたのだった。このコンセプトがウィル・スミス版では完全消失して、単なるアメコミヒ-ロー映画に成り下がった。

 

 ロメロは「主人公が一軒家に立てこもる」シチュエーションが気に入り、突如出現したゾンビの集団に主人公の男女が立てこもって戦う設定にした。この辺は西部劇に通じる。

 『ナイト・オブ・・・』では、かつての「良き隣人」がバケモノと化して、昨日までの隣人を食いに来る。想像しがたい怖ろしい状況だ。

 

 主人公は若い女性と黒人男性で、他に数人の男女が登場する。

 リーダーシップを取るのは主に黒人で、白人の中年男とその家族は身勝手で我儘な存在として描かれる。

 ゾンビという敵を前にしたら、白人、黒人の違いなど無く、共に戦わねば生き残れない。このことは黒人差別に一石を投じる格好にもなったが、これは敗戦色が濃くなって来たヴェトナム戦争の影響があると言われる。共通の敵を前にしたら人種など関係ない。 

 

 もうひとつは「女性」の取り扱いだ。ロメロの弟子とも言えるトム・サヴィーニが後でリメイク版(1990)を作ったが、当時の世相である「女性の権利保全」を加味・反映させたものにした。

 主人公の一人は、冒頭でゾンビに兄を殺されるバーバラと言う女性だが、最初は恐怖で泣き叫んでいるだけの「か弱い女」だったのに、戦いを通して、主体的に行動するように変じる。

 

 『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は、ゾンビというキワモノ素材を用いて恐怖を煽るだけの映画ではなく、常に「死生観」や「社会観」の変化を視野に入れた映画だった。

 

 コンセプトだけでなく描写も巧みだ。リメイク版には冒頭にこんなシーンがある。

主人公が民家に逃れるのだが、その家の本来の住人は、既に死んでゾンビになっている。

 主人公たちは、そのバケモノを倒すのだが、醜悪なバケモノを倒した後で、家の中をカメラが捉えると、さりげなく机の上に写真が飾ってある。かつて「人間だった頃」のバケモノの穏やかな姿だ。一瞬だけ、これを見せることで、死んだ後に「まったく別の存在に変わった」ことの恐ろしさを倍加させている。

 

 これには、思わず「こういう一文の描写を加えるのは、表現の才能を持たぬ俺には、到底出来ね」と思ってしまった。

 ま、自分に無いものを数えても、何にもならない。自分が出来ることを自分なりにやればよい。

 普通は自分に無いものを見たくないから、他人のアラを探す。

 さらには、その相手の悪口を言って、自分を慰める。こういうのが最悪の振る舞いで、こういう者に発展や成長の望みは無い。

 居酒屋でそこにはいない第三者の悪口を言うのは、典型的な「成長しないヤツ」になる。たぶん、一生同じことの繰り返し。

 考え方を根本から改め、「今置かれた状況で、自分なりに何が出来るか」と考える必要がある。

 

 かといって、中年以降になると、「反省から新しく生まれることもない」ので、正解は「他人の長所から学び、自分の良い点を伸ばす」ということになる。欠点を矯正出来るのは若いうちだけで、大人になったら、「欠点はなるべく顔を出させぬように後ろに置く」のが関の山だ。

 

 脱線したが、オチは「死にそうになっては、その都度生き返っているのだから、俺の方がよっぽどゾンビだ」ということ。つい数か月前にも酸素吸入をしていた。