日刊早坂ノボル新聞

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◎病棟日誌「悲喜交々」十一月五日  「母の形見」

病棟日誌「悲喜交々」十一月五日  「母の形見」

 土曜日は通院日。また体重が1キロ半減って、いよいよ「標準体重」の域に入った。一年前が85キロくらいで、今は71キロ台だから、13キロは減ったことになる。

 痩せると一気に老けるので、ニ三キロほど戻すべく、食事の後に意図的に菓子パンを食べるなどしているが、太らずに痩せて行く。

 健康的に痩せる分には問題ないが、ダイエットしているわけでもないし、糖分も多めに摂っている。それでも痩せるのは、いよいよ多臓器不全症に突入したかもしれん。食後でも血糖値が上がらなくなった。

 私よりも先輩の患者が三人いるが、女性一人はかなりヤバそう。ま、上半期には私がその状況だった。

 入棟順に前の患者三四十人が消えて、後の患者も五十人以上が入院病棟に去った。こっちに戻って来ぬのは転院したわけではないわけで、病院ではなくこの世を去った。

 でもま、こういう状況にもさすがに慣れる。死刑確定囚だって、何年も知らされずに、いきなり執行の前日かその日の朝に言い渡される。さぞ不安で堪らんだろうと思っていたが、どんな境遇にも人は慣れるようだ。

 

 ところで、病棟には出稼ぎに来たK国人看護師がいるが、いつも真面目に働いている。そこで、きちんと仲間に入れることにして、世間話を始めた。かの国から来た窃盗団の被害に遭ったことがある者としては、あの国にはすぐにも滅びて欲しいし、民族も絶滅して欲しいが、目の前の「この若者」は話が別だ。

 国や民族、作り話の文化をけなしはするが、「この人」について理由なく差別はしない。そんなのは当たり前だ。

 もちろん、それなりの理由があれば、誰であっても批判はする。これは相手がどの国の人間でも同じだ。

 世の中にはイカサマ野郎があきれるほど沢山いる。

 

 さて、夕食後、家人が「おばあちゃんの形見分けの財布があった」と黒革の財布を持って来た。生前、母は自分が元気なうちにと、「これはあなたに」「これは誰それに」と持ち物を分けていた。

 家人は母から直接、装飾品などと一緒に渡されていたようだ。

 生きている内に自分の死んだ後の準備を始めるのは、さすが母と息子は性格が似ている。

 中を検めると、盛岡の八幡さまのお守りや飯能の鳥居観音のお守りが入っていた。やっぱりナンバー2は八幡さまなわけだ。もちろん、主神は天照大神になる。

 鳥居観音のお守りは私が渡したものだが、母は大切にしてくれていたらしい。

神さまのお札はそれぞれ財布の部屋を別にしてあったから、きちんと作法を心得ている。二人部屋にはせず各々が個室だ。

 あとは心不全を発症した時用のニトロ錠剤とか、心臓の難しい病名を記した紙が入っていた。心臓病は血筋に流れているから、家族病だ。仮にあと何年か生きていられるのであれば、いずれ私も同じ病気を発症する。

 

 母の財布を見ていたら、いつの間にか気持ちが和んでいた。

 一生を通じ、ずっと息子たちのことを案じて暮らしていたのだな。

 部屋でお焼香をして、「生きている者のことは生きている者自身がやるから、もう心配せず先に進んでくれよ」と祈念した。

 母とはよく話をした方だから、一つひとつの言葉が記憶の中で生きている。母がこだわりを解いて、先に進んでくれると、病苦の無い新しい人生が待っているかもしれん。

 「けして忘れんから、俺たちを見守ってくれなくともいいよ」

 

 母の八幡さまのお守りを見て気付いたが、一年くらい苦しめられた昨秋の「障り」がようやく解けたような気がする。

 ま、外に出れば、何やかや拾うから、束の間の休息には違いない。激やせが止まらんから「騙し」かもしれん。

 

 今も後悔することは、母のところに来た「お迎え」が母本人ではなく父の前に現れたことだ。私はそのことを知らなかったが、かなり後で父が「若い男が来て、あいつ(母)を『連れて行く』と言った」と私に言った。周囲は父が「認知症になったのか」と疑ったようだが、私はそれを聞いてすぐに気が付いた。

 たぶん、父の前に現れた「若い男」はこの世の者ではない。妄想ではなく現実に現れた。

 これは、私自身が、私を迎えに来た二人組に実際に会ったことがあるから、間違いはない。

 外見上は、普通の人間と同じなのだが、二人の周り数十センチの景色が歪んでいた。 こういうのは、生きた人間ではあり得ない。

 

 父の前に現れた頃に、私が母の傍にいてやれれば、たぶん、母の死期を一年か二年ほど先送りに出来たと思う。

 とりわけ今なら色んなことに習熟しているから、そのことが口惜しい。