日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎己の状態を知る

◎己の状態を知る

 今日、十二月五日は地域当番の務めがあり、一日外出していた。変わりがいないので自分で行くが、さすがにしんどい。

 帰路、トラの神社に参拝しようと思ったが、既に午後三時を回っていたので、最寄りの八幡さまに参拝することにした。

 私の場合は、神社やお寺に足を踏み入れる回数を減らした方が、出入り口で「迷っている者」を拾わずに済むようだ。外鳥居や山門下には、入るに入れぬ者が屯している。私の半分はもはや「死人」だから、近くを通ると、相手の方から先に気付き、寄り集まって来る。

 「蜘蛛の巣が頭にかかる」事態になると、これを落とすのに割合手間がかかる。「入るに入れぬ者」は通常の幽霊よりも「深く暗い心の闇」を抱えているのだから当たり前のことだ。

 

 だが、外出する度に「何かしらを連れ帰る」ことには変わりない。やはり時々は「ガス抜き」が必要だ。下ろす方が多いのか、拾う方が多いのかは、その時々の状況による。

 ま、滅多なことは起きぬと分かっているので、それほど気にはしていない。

 

 もはや冬で、午後三時を回ったところだというのに、早くも薄暗かった。もちろん、一日中、曇天で時折雨が落ちるほどだったということもある。

 先にガラス扉を数枚ほど撮影し、神殿で手を合わせて、再びガラス扉に映る自分の姿を撮影した。

 この時点で「ああ。何かに寄られているな」という自覚症状がある。

 

 帰宅後すぐに開いてみたが、それほど大きな異変は起きていなかった。

 煙玉が映ったくらいだが、煙玉はそもそも自然現象で、そのこと自体は問題ではない。それを催起させたのが、単なる埃や水滴なのか、あるいは別の要因なのかという違いだけ。

 幽霊は何らかの物質で構成されており、それが変化すると、周囲にも影響を与える。その影響のひとつが煙(霧)や煙玉だ。何時も出るというわけでもなく、霧や煙玉を伴わぬ幽霊もあるから、その時のケースによる。繰り返し述べて来たとおり、煙玉自体は心霊現象そのものではなく、「たまに心霊現象の付帯的現象として現れることもある」という自然現象になる。

 扉に近づきながら撮影したのだが、いわゆる「蒸気玉(湿気に光が反射したもの)」としては大きく、「レンズ方面の水滴」にしては位置を変えるから、少し疑問点がある。

 この煙玉は下降しつつ拡大(または攪拌)し、消失した。その一方で、私の左肩に小さな煙玉が止まっていたようだ。

 

 この先は通常の視覚域の人には見えぬ領域だ。

 私は赤外線側、紫外線側の両方とも、少し見える範囲が広いようで、他の人が見えぬものを見ているようだ。「ようだ」というのは、自分にはいつも見えているからで、「他の人が見えぬ」ことが理解出来ない。他の人が見えている内容を認識出来ない。

 いつも、「映画のプレデターに出て来る宇宙人のような影」と表現して来たが、そういう「影」なら日常的に見ている。画像の中の「影」も認識出来るのだが、同じものを見てもそれとは見えぬ人の方が多い。

 母は自分が見聞きしているものを一切他言しなかったが、今は母の気持ちが分かる。

 「話したところで、『コイツはおかしいヤツ』『気の触れたヤツ』と思われるだけで、同じものを見る者も、認識できる者もいない」と分かっていたから、何も言わなかっただけだ。

 差し障りの方が重いから言わぬということ。逆に単なる想像や妄想を語る者は、「自分には能力がある」と自称する。それが「能力」だと思っているのなら、とんだ「うつけもの」だ。

 私にはあの世に関わる能力など何ひとつ無く、近視や遠視のように見え方が普通とほんの少し違うだけだ。あるいはほんの少し高周波の音が聞こえる程度の感覚しかなく、何ひとつ確たることは分からない。それでいて十分すぎるほど苦痛を感じる。「能力者」なら日常的に隣に立たれる筈だが、それの何が楽しいのか。

 

 今日のには、御神体の方向に向けてシャッターを切った画像があるが、これには私の遠く背後の木々の葉が写っている。これが最も不快な画像で、沢山の視線が御神体の方を見ている。

 神社の外鳥居、お寺の山門下には、浮かばれぬ魂が屯しているが、入るに入れずただ中を眺めている。

 あの世と接点を持つ者にとっては、気を許してはならぬ場所になる。実際、帰り際に幾度も拾い、家に連れ帰った。

 

 私の後ろには「女」が立っている。たぶん、これが見えるのは五人くらい。

 前回、タイミングが合い、「ビジネスーツの女」の姿を捉えたが、その「女」と今回は違うようだ。

 ひたひたと悪意を感じるので、丁寧に慰め、私から離れて貰う必要がありそうだ。

 

 こういうのは、他の誰かに同意して貰ったりする必要はない。

 自分で必要と思うことを実際に行い、結果的に正しい状態に戻すことが出来ればそれで良い話だ。

 少し母に近づいたわけだが、私は他言するのは平気だ。他人にどう思われようが、知ったことではない。勝手に思え。

 口に出して言わねば、伝えたい人には伝わらない。その相手が「好きな人」でも、「神さま」や「仏さま」「亡くなっている家族」でも同じことだ。

 ここに記すのは、私と同じ境遇をかこつ者が幾らかいるので、そういう者に「救済の道はある」というメッセージを送っているということ。仲間であれば、命を賭としても助けるのは言うまでもない。

 「必ず助けてやるから安心しろ」。

 これは私の死後も続く。というより、私の死が始まりになるのかもしれん。

 

 追記)翌朝は左肩から背中に張りがあり、動かせぬくらい固くなっていた。

 左手に力が入らぬほどだ。

 状況を見取る精度がすこぶる高くなっている。