日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「盆回し出品物の解説 D524-D528」

◎古貨幣迷宮事件簿 「盆回し出品物の解説 D524-D528」

 数日ほど時間が空いたが、整理を再開する。

 これまでに記して来たとおり、絵銭は販売地・製造地が割とはっきりしており、「流動性が少ない」ことから、鋳銭技術などの特性を分析するのに役に立つ。

 貨幣に比べ、著しく小吹きだから、時代背景などを知る手掛かりが乏しいとするのは、単にものぐさなだけだ。

 一例を挙げると、掲図のD526の大黒鉄銭は、事実上、既存の銅銭を写すという手法で作られたものだ。地金や製作の拙さから見ると、軽米大野方面か、あるいは浄法寺山内あたりが候補地だが、小型銭であるところを見ると、前者の可能性の方が高い。

 ひとはどうしても日頃より作り慣れた規格の方を選択するものだからだ。

 この鉄銭で何が分かるか。

 北奥地方で最も古い鉄銭製造地は、軽米大野なのだが、概ね文政以降の密鋳銭が盛んに作られるようになった頃に始まっており、幕末明治初年までこれが続いた。

 鉄銭が銅銭の型を写しとったものなら、少なくともこの絵銭の型自体は、それより以前からあったことになる。

 北奥のたたら鉄であれば、たたら炉から流れ出た熔鉄をそのまま型に流し込むという手法を取る。これは明治以後の近代製鉄法とはまったく方法が異なるので、基本的に鉄絵銭に偽物はない。これは「作ってもそれと分かる」という意味を含むので、念のため。近年稲荷、鉄の偽物が鋳物工場で作られたが、いずれも製造工程が幕末明治とは決定的に異なるので、一瞥で分かる。(ここがこうなっているからとは、もちろん、書かない。それを情報源として偽物を本物に引き寄せることが出来るからだ。)

 大黒や恵比寿といった福神一人を模した絵銭は、かなり古くから作られており、江戸期の銭譜に掲載されている。かたや、世間に知られた一般的な意匠でもあることから、明治末から大正にかけて、絵銭が盛んに作られた時期には、殆どこの手の絵銭が作られていない。時代が下がると、より派手で見栄えのするものが好まれるようになる。

 そうなると、銅銭、鉄銭共に、一定の時代枠(製作期間)の幅があることになる。

 そこに経済的事情を加えると、どの時期にどの絵銭を作ったかを導くことが出来る場合がある。そして、さらに、鋳銭座で絵銭も作った事例があることから、次は通貨(寛永銭)との関連性で眺め直すことが出来るようになる。

 

 D524はいずれも北奥のつくりだ。「21」の方はひとまず不明としたが、浄法寺寄郭と同じ製作の品だ。「23」については過去に解説を付記してあるが、地金や研磨方法が八戸の密鋳寛永銭と同じやり方となっている。

 いずれも江戸物をそのまま移すという方法に拠らず、新規に木型を彫って作成したものだ。「23」の福神には表情があり、独特の風情を醸し出している。

 こういうのが地方絵銭の良いところだと思う。

 

 D525も製作が古く概ね江戸期のもので、Aは江戸中期の銭譜に掲載があったと思う。

 銭譜をすべて処分したので、「どの絵銭譜に」と具体的に書けぬのが残念だ。

 D527のBは、輪と穿に刀を入れ、すっぱりと壁面が立つように加工している。通常、この加工を見ると、「鉄銭を作ったな」と見なすのだが、この母銭では鉄銭の穿は広くなる。仮に鉄銭を見付けられるのであれば、その瞬間に母子が揃い、珍品に化ける。

 

 絵銭は信仰用途だが、今と位置づけが変わらない。

 大きな神社や寺社の境内や門前町で、信徒のために売られた。

 このため、販売地(製造地)を出てからは、各々の家に持ち帰り、その後はほぼその家の中に保管された。よって、江戸、大阪、伊勢方面の絵銭は全国に分布している。

 一方、地域ごとに作られた絵銭も数多く存在し、こちらは地域間流動性を持たぬから、割合独立した銭群を形成している。

 その意味で、鉄絵銭はすごく興味深い。

 これは「鉄絵銭は売るために作ったものではない」からだ。

 鉄の絵銭は鋳銭職人が自分たちの守護を祈願するために作ったものだ。

 どうして文政以後天保時代になり、盛んに密鋳銭が作られ、鉄絵銭がつくられるようになったのか。

 もちろん、それは飢饉との兼ね合いによる。

 幕末の締め付けが緩んだ時期には全国で贋金が盛んに作られるようになり、摘発を免れるケースが出たわけだが、文政から始まり天保期には、銭密鋳が露見すれば死罪だった。飢えて死ぬか、死罪で死ぬかという状況だったわけだが、もちろん、生きるチャンスが少しでもある方を選ぶ。 

 その時に、すがる相手は神や仏しかいない。

 鉄の絵銭の存在数が決定的に少ないのは、そういった背景がある。

 

 さて収集家の皆さん。皆さんは、この絵銭が「何故に今ここにあるのか」を考えてみたことはあるのか?

 収集を止めて、ひとつ良いことが出来たのは、心中で思っていても口では言えなかったことが、大っぴらに言えるようになったことだ。

 手の上の銭だけ見て、何を語ろうと、それはせいぜい十五㌢四方内での話だ。

 天保の飢饉の際には、盛岡八戸から津軽にかけての北奥一帯で出た餓死者は、一説によれば「数万人に及ぶ」と言われる。そして、その土地土地に固有の絵銭がある。

 津軽には独自貨幣は無いが絵銭がある。かつて地元の人に見せて貰ったことがあるが、収集界ではほとんど知られていないと思う。

 時間が来たので、ここまで。

 

注記)いつも通り一発殴り書きで推敲や校正をしない。記憶違いや誤りは当然あると思う。 日々の雑感の範囲となる。