◎足し算思考
これはまだ子供の頃の話だ。
父が鴈喰(黒豆)のビジネスを始める前に、試行錯誤で色んなことをやった。その頃の父は片田舎のよろづ屋の主だった。
私が小学一年か二年の時に、父は姫神山の山開きの日に、登山客を当て込んで、屋台の売店を開いた。
その当時は、山開きの日には、毎年千人から二千人が訪れていたと思う。
登山口付近に屋台を出すための区画が仕切られており、業者はその一区画の権利を買って、店を出した。
屋台の総数は十店くらいではなかったかと思うが、この記憶は不確かだ。
当日の朝早くに現地に着き、屋台の設置を始めた。
斜面なので、地面に杭を打ち、物置台が平行になるように板を張った。杭はたぶん、前日のうちに父が打ってあったと思う。
父がその設営をする間、兄と私は荷物運びの手伝いをした。
その当時は、駐車場などが無く、麓の坂下にある野原に車を停めたので、七八十㍍は離れていた。
車から屋台へは、二十五度くらいの斜面をネコ車に乗せて運ぶしか方法はない。
当時は小学一年か二年だったから、もの凄く往生した(たぶん、小二だったと思う)。
缶ジュースの段ボールひと箱は十数キロある。
ネコ車に乗せても、小二の子どもには一個ずつしか運べない。
それも十分以上かかってようやくひと箱だ。
これを十数回繰り返したが、足は笑うわ、腕ががちがちになるわの状態だった。
それが終わると、次は菓子類や果物を運んだ。こちらはジュースより軽かったので良かったが、既に十分すぎるほどくたびれていたので途中で幾度も休んだ。
六時頃から始めて、九時の山開きの式典にようやく間に合うくらい手間がかかった。
店を開いてからは、午後まで何もすることが無くなったが、疲労から、裏でほとんど寝て過ごした。
そのうち、登山客が沢山訪れ、行き帰りに屋台に寄った。
とりわけ、登山の後には喉が渇くから、ジュース類や果物がよく売れた。
当時の缶ジュースは一本が七十円か八十円だったと思うが、父の屋台では百三十円くらいの値札を付けた。
ま、「町から十数キロ運ぶ」「人力で登山口まで運ぶ」というステップを経ているから、リーズナブルな価格だ。
本題はここから。
昼頃から店頭で見ていたが、街から来たと思しき、父子三人組が父の屋台を訪れた。
上の子は小五か六くらいだったが、ジュースの値札を見て、こう叫んだ。
「あ。これは普段七十円で売られているヤツだ。ボッタクリだボッタクリだ!」
正確には「ボッタクリ」という言い方ではなかったと思うが、意味はそういうことだ。
それを聞いて、私は「コイツはなんと頭が悪い奴なんだろう」と思った。
自分の家の近くの店では、確かに七十円かもしれぬが、そこから、ここは二十キロは離れている。普段は誰もいないところに客のために運んでいるのだから、途中の経費が掛かって当たり前だ。
客の子は頭の中でこういう考え方をしている。
「普段買うジュースは七十円」
「ここでの売値は百三十円」
「百三十円ー七十円の六十円は不当な利益」
これは単なる見た目の足し算・引き算でしかない。
この子どもは「途中で人間が荷物を運んだり、冷水を引いたプールに入れて冷やしたりする姿が想像できない」のだ。
私は小二だったが、この小五の子どものことを「底抜けのバカ」だと思った。
この話にはまだ続きがあり、昼過ぎになると、別の屋台の主人が父に文句を言いに来た。
「俺たちは二百円で売っているのに、お前のところだけ百三十円だ。皆の値段に揃えて貰わぬと困る」
実際、登山客は入り口に向かう時に、全部の屋台を覗いて行くから、価格差があるのが分かる。下山の時にジュースを買うなら、一番安い店に行って買う。実際、ほとんどの客は父の屋台でジュースを買った。
父にとっては姫神山は庭同然だから、ホースを持参して湧き水を引くくらいは簡単に出来ていた。それを大バケツに溜めそれでジュースを冷やしたから、凄く冷たいものが飲めた。
仮に値段を揃えても、客は父の屋台で買ったと思う。
山小屋の売店では、麓のスーパーで百五十円で売られているカップ麺が、大体、四百円か五百円だ。これは、その商品を運ぶのに、「人がリュックに背負って坂道を上る」しか手段が無いことによる。適正な価格は、重量と労力の兼ね合いによって決まって行く。
ここを「麓では百五十円で買える」「ここでは四百円」で、「差し引き二百五十円は山小屋の儲け」になると考えるのは、単なる「足し算思考」で、「思慮の足らぬ者の考え方」だと思う。
ジュースの例のように、「百三十円と三百円のどちらが適切か」はまた別の話だ、
さて、ここからが質問だ。
「中国の脅威に備えるには、防衛力の強化が必要だ」
「防衛力を高めるには、費用が掛かる」
「その分を補うため、増税が必要だ」
これが「足し算思考」でなくて何なのか?
判断材料のひとうはこれ
これだけで構図が見える。
岸田総理はもっともらしことを言っているようだが、「缶ジュースがボッタクリだ」という小五の子どもと変わりない。
岸田総理を保守層(の一部)が嫌うのは、考え方がパヨと変わらぬ「足し算思考」の持ち主だからということ。
言葉は綺麗だが、各所で思慮が浅い。他者との間で揉まれていないので、短絡的な考え方をする。