◎病棟日誌4/15「そして誰もいなくなった」
週に三日は通院があるのに、その他にも循環器や眼科の診察が定期的にあるから、週に平均四日は通院だけで過ごす。帰宅後は何かをする体力と気力がないから、夕食の支度と後片付けで終わり。
自分は食事を摂らずに横になってしまうから、まただ徐々に痩せて来た。食後に無理をして菓子パンを食べていたが、食事自体を忘れる。
何もしないでいるのは、精神的な苦痛になるので、ただ起きていることも多い。何も出来ぬのだが、寝られぬので起きているが、そうすると疲労だけが溜まって行く。
精神状態が壊れ、もうろうとし、自分でも「言動が支離滅裂になっている」と感じることがある。
「危ねえ。今はウエ※※さんの精神状態に似てるぞ。きっと」
限界に達し、眠ってしまうが、目覚めた時は、心が軽くなっている。
やはり、人間は「必ず休息をとらねばならぬ」ように出来ている。どんな境遇でも、再起を志し、立ち向かうべきだな。
いまだって、まだ歩けるし、足もまだついている。
この先は厳しいが。
土曜に気付いたが、左隣のオヤジが別のジーサンに替わっていた。左隣のオヤジは六十台の半ばくらいで、二年前に入った患者だった。技術畑なのか不愛想で、古株の患者たちに「態度が悪い」とクレームを付けられていた。無口で、自分から挨拶をすることもないオヤジだった。
医師との面談の内容は隣近所にも筒抜けだから、誰がどんな状態かは皆が知っている。
そのオヤジは血尿が出ているから、膀胱がんか腎臓がんの疑いがあった。検査結果は「悪性ではない」という話だったが、しかし、下血もしていた。
自分のベッドに居ないところを見ると、入院病棟に移ったか。
親しいわけではないが、日常の景色の一部が欠落すると、喪失感がある。
他人事ながらまた戻って来られると良いのだが。
病棟の患者の顔触れは、この春でかなり替わった。
やはり三月頃には具合が悪くなる者が多い。
当方だって、ひとつ間違えると足を切られるところだった。
昨年は悪くもない心臓をいじられるところだったのでまだましだ。
母方の祖父は、戦争末期にニユーギニアのどこかの島に居たが、その島では兵力三万人が駐留していたのに、豪軍の艦砲射撃に玉砕した。降伏したのは一千人で、翌年の引揚船に乗れたのは五百人だけだったそうだ。
祖父が捕虜収容所にいる時には、きっと今の当方と同じような思いを味わっていただろうと思う。
こっちの祖父も頑健だったし、頭が切れた。
敵の鉄砲玉の来る方角などを常に計算しながら行動していたそうだ。
祖父は「それが出来ぬ者は生き残れなかった」と言っていた。
さて、自分の境遇を嘆いている暇など無く、きちんと立ち向かう必要がある。
当方のすぐ後ろには数万の亡者が迫っている。死ぬのはともかく、その後で亡者の隊列に飲み込まれぬようにする必要がありそうだ。
それと、せっかく亡者がわんさかいるのだから、有効な活用法がありはしないか。
気に食わぬ奴のところに「悪霊を送る」とか、自由に亡者を操れるようになれば、色んなことを企んで遊べる。
割とすぐ近くに道筋があるような気がする。
家の外で街灯がひとつなのに、影が二つか三つ出来ていることが現実にある。で、そこでは時々、蜘蛛の糸が顔に懸かることが頻繁にある。
「ただ死んだりせず、この世の者の奥歯をがちがち言わせるくらいのことを・・・」と考えている自分を発見し、「さすが俺は亡者の心の内に通じている」と思った。ヤバイぞ。生きているのに、悪霊の考え方になっている。
とにかく百鬼夜行の外に居なければ。
さて、後半は「イカれた奴の妄言」だが、今の当方と会えば考えが変わる。その場で写真を撮影し、背後に立つ者を見せてあげられると思う。しかし、当方は人間嫌いで他人と会うことは殆どない。
ちなみに、頭がイかれているのではなく、存在や境遇自体がイカれている。
それでも、当方のような者が「亡者がこの世に這い出てくるのを止める」務めを果たしていると思う。
不浄霊を見付けては、人知れず供養を施し障りが及ぶのを引き留めている。
看護師のユキコさんが調べたそうだが、当方の他にも同じような者が何人かいるらしい。
画像は眼科の診察のあった日の帰り。遅くなるので帰宅が夕方になり、既に患者は一人もいない。
医師看護師たちもそろそろ帰り支度の頃だ。