日刊早坂ノボル新聞

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◎「ほどヶ淵の河童」の話

「ほどヶ淵の河童」の話

 人は「生れ落ちてから死ぬまでの記憶を詳細に仕舞い込む」そうだ。

 忘れるのは「整理箪笥の中に仕舞う」だけで、無くなりはしないらしい。

 

 最近、四十年以上前のことを不意に思い出すが、意識しなかったことを詳細まで憶えていた。

 多くは嫌な思い出や怖い話で、「思い出したくない」から格納庫に仕舞い込んでいたらしい。

 だが、当面はホラー小説を書くので、都合が良い。

 

 具体的には郷里の「ほどヶ淵」のことだ。

 私は岩手県の中央の旧玉山村の出身だ。

 実家の近くの北上川に「ほど」という水の澱んだところがあったが、そこには「河童が出るので、近寄ってはならない」とされていた。

 同じように「しんか」という沼も「河童」の話があり、子どもは近づかなかった。

 ところが「ほど」でも「しんか」でも魚が良く釣れる。

 北上川では鮎、沼では鯉が釣れるので、時々、事情をよく知らぬ釣り人がそこで釣りをした。

 で、何人かが溺死した。

 

 「ほど」でも小学校の一年か二年上の児童が溺れ死んだ。

 今思い出したが、「ほど」は「乞食(ほいど)」のことで、昔、盗みを働いた乞食(実際には修験者)を簀巻きにして川に放り込んだ場所らしい。

 その後、その「ほど」の祟りなのか、そこで泳いだ子どもや釣り人が溺れ死ぬようになった。

 少し離れたところに祠が立っていたが、溺死者の供養塔だったらしい。川は時間の経過と思に位置を変えるので、元の澱みのあった場所とは別の場所に移ったが、「ほど」は「ほど」のままで障りがあるから寄るなと言われていた。

 この件は事実をそのまま記せば、ホラー話になると思う。

 「ほど」では小学生やお婆さんが、「しんか」では釣り人が実際に死んだ。

 

追記)「ほど」の伝説は、昔、北上川が蛇行して、甚平衛坂のすぐ下にあった頃の話らしい。要は藩政期の出来事で、軽く百五十年以上前の話だ。

 甚平衛坂は奥州道中を渋民宿から、馬場街に進んだ先にあるのだが、かつては急坂で、ちょうど坂の頂上に甚平衛という親父が茶店を営んでいた。これは北から南下して盛岡城下に進もうとする者が坂を上ったところで休みたくなるのを当て込んだものだった。

 甚平衛の茶店のある坂なので「甚平衛坂」と呼ぶわけだが、これは当人の生前中にもそう呼ばれていたらしい。

 坂下には北上川の澱みが見えるのだが、ある年に大雨が降り、北上川が氾濫した。甚平衛はそれを案じて、その淵を見下ろしていたが、何の弾みか川に落ちてしまい、そのまま流された。

 これが表向きの甚平衛坂の伝説だ。

 だが、これは子供向けに作り直したものらしく、実際には、盗人が茶店に押し込み強盗を働き、甚平衛を殺して金品を盗った、というのが事実関係らしい。

 この先は、記録には無く、口承での言い伝えだけなので、「知る人ぞ知る」の話になる。

 その後で、馬場街を荒らす盗人を取り押さえたのだが、これが山伏の「生れの果て」だった。山伏を凝らしめたら外聞が悪いので、その盗人を「乞食(ほいど)」だと見なし、簀巻きにして川淵に放り込んだ。

 乞食は溺れて死んだが、その淵ではその後変事が続くようになったので、この淵のことを「ほいどヶ淵」と呼んで、人を遠ざけるようにした。これが何時しか「ほど」に変じた。

 川の蛇行は時間と共にかたちを変えるので、その後百年が経つうちに、「ほどヶ淵」は別の場所に移った。伝説も変わり、「河童が出て、人を引きづり込むから近づかぬように」と言われるようになった。

 

 甚平衛坂の頂上にはある畑と草叢があるが、そこに家の土台に使った石が残っている。

 既にこの坂の近くから北上川の流れは遠ざかっているが、川に向かうと、その途中で人口石が幾つか転がっている場所があった。これは「ほどの障り」を鎮めるために建てた祠の跡だと言う。

 

 この話を聞いてから、もはや四十年は経っている。五六年前に甚平衛坂を見に行ったが、土台石は既に見付からなかった。川の方は、かつての道が無く葦が盛んに生えていた。

 これはかたちを変えて、「怪談」シリーズに組み込もうと思う。