日刊早坂ノボル新聞

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◎「狭山異空間伝説」 /「近隣」の者の証言 

◎「狭山異空間伝説」/「近隣」の者の証言 

 幾日か前のことになるが、夕食の支度をしている時に、テレビが点いていた。

 何となく聞いていると、ある番組で「埼玉異空間事件」が紹介されていた。

 これはネット掲示板に書かれた体験談が基になっているのだが、その要点はこれ。

・投稿者は、二十年前くらいに、ある市の小学校に転校になった。

・そこでクラスメート三人と一緒に空き缶探しをした(一行は四人)。

・いつしか林の中に分け入ったが、そこには見知らぬ集落があった。

・鎌を持ったお婆さんに睨まれた。

・逃げ帰った後には、仲間が三人だけだった。

・その「消えた一人」が存在していた痕跡が完全に消失していた。

 

 「どこかで聞いたことのある話だ」と思ったのだが、何のことはなく、私の住む狭山市の話だった。

 ネット掲示板で割と話題になった件なので、「狭山市」「異世界」で検索すればすぐに出る。

 テレビ放送で「埼玉県のある場所」としていたのは、「近隣住民への配慮」ということだろう。

 テレビで紹介すると、物珍しさから、現場まで探索に来る人がいるし、大体、そういう者は地元の者の迷惑を考えぬ振る舞いをする。この場所にも住民が居り、農地もある。勝手に踏み込んで荒らされては堪らない。

 

 だが、私はその「近隣住民」の方の立場だ。

 これを書いた人(投稿者)は、「富士見小学校に転校になった」と記しているのだが、冨士見は我が家から一キロくらい先になる。

 この辺に「深い雑木林」など存在したかが疑問だ。

 また、話の途中で「廃校跡」が出て来るのだが、二千年代なら、私はすぐ近くの小学校で子ども会の役員をしていた。この地域一帯で九十年台以降に統廃合があった話を聞かない。

 (なお十年代以後は少子化が進み幾つか統廃合がなされている。)

 おそらくは「学校に似た建物」の廃屋があったということではないかと思う。

 

 そこで、今回はこの件について少し調べてみることにした。

 元記事には地図コードが記されており、35°51'40.7"N 139°25'17.1"E の辺りが、この出来事が起きた場所だろうという話だ。

 掲示の地図がそれだが、ここは投稿者が通っていた富士見ではなく、入間川から狭山にあたる。

 なあんと、私の家からほんの数百㍍の距離だった。

 子どもたちが通っていた中央中よりも、まだ当家に近い位置にあたる。

 おいおい。つい線路向こうの畑の先にある雑木林のことじゃないかあ!

 

 目と鼻の先なので状況が分かるが、大人の足なら難なく通り過ぎることのできる範囲だ。

 ここは投稿者が小学生で、さらに馴染みのない場所だった、ということだろう。

 なお、この地域には記述に出て来るような平屋建てが並ぶ集落はない。

 

 これなら、現実主義的な者(オーツキ教授とか)は、きっとこう言うだろう。

 「小学生はあれこれと空想や妄想を思い巡らすものだ。見知らぬ林の中で、迷子になりかけ、恐怖心から現実と妄想の区別がつかなくなったのだろう」

 集落の中で「怖ろしい形相の老婆」に会うのだが、実際には、「悪戯者の子どもたちに眼を光らせる農家の人」だったかもしれぬ。

 居た筈の仲間が一人消えてしまった件については、単なる「思い違い」。

 

 そういうケースはもちろん、あり得る。

 子どもの心は繊細だから、各々の心で受け止める心象体験は、現実の出来事よりも過激になる。

 他の者、とりわけ大人が見れば、普通の地域で、普通の人がいて、当たり前の対応をしていたのかもしれぬ。

 あとは記憶が錯綜し、思い違いが混じり込んだのだろう。

 

 だが、こういうのは無下に否定するのではなく、幾らか耳を傾けるべきだと思う。

 この世で起きることは、概ね常識的な範囲に収まる。普段の暮らしから外れるような出来事は、ほとんど起きない。

 だが、「ほとんど」は「完全なゼロではない」という意味もある。

 何百回も足を運んだ、その同じ場所でも、まったく見知らぬ場所に思えることはある。

 それが単に「感覚の違い」によるものか、実際に「場所の方が変わっている」ことによるものなのかは、当人には計り知れぬ。

 

 この世の多くは、経験的な知識で解釈できるし、それを問題解決に役立てることが出来る。

 だが、この世から外れたルールも存在している。

 私は周囲にひとの誰もいない場所で、時々、何者かに声を掛けられる。

 他の者は「気のせい」「空耳」と言うだろうが、私の傍に居て、私の聞くその声と同じ声を聞いた者がいる。そして、同じくその場にいて、聞こえぬ者もいる。

 「ルールは必ずしもひとつだけではない」ことを頭に入れる必要がある。

 

 さて、この話の正確な場所が分かったわけだが、私がそこに足を踏み入れることはない。

 たぶん、他の人には、何でもない場所だ。ものの五分もあればこの雑木林を通り抜けられる。

 別の例えを出すと、稲荷神社だ。稲荷神社に参拝するのは、殆どの人にとって、何でもないし、足を運んだからと言って特別なことは起きない。だが、私は稲荷とは相性が悪く、鳥居に近づいただけで具合が悪くなる。

 これは単純な心の問題ではない。不調の原因が稲荷との相性のせいだと分かったのはごく最近のことだ。何十年も、境内で具合が悪くなるのは「たまたま」だと思っていた。昨年、稲荷眷属の声を直接聞いて、初めて確信を持てたのだ。

 こういう現象は「ひとを選んで起きる」と言ってもよい。他の者の「ごく当たり前の常識」は、私のような者には役に立たない。

 よって、殆どの者には「たぶん、ありきたりの雑木林」であるはずの場所でも、警戒心を怠ることはない。「自分にだけ起きる」「自分が触れた時だけ禁則が発動する」ことがあるからだ。

 

 投稿者の物語の中で、「一緒にいた筈の仲間」は、「井筒君」と言う。

 うっかり気を抜いて、その地に立ち入ろうものなら、私が「井筒君」になるかもしれぬ。これは実際にそうなるかを確かめることの出来ぬ次元の話だ。やり直しがきかぬからだ。

 

 追記)この地域には幾つか「穴(あの世との結節点)」があったのだが、半年から一年くらいで、消失したり場所を移したりしている。最近では平成十七年から二十年と、令和元年前後に、「うまく説明のつかぬ現象」が多発した。それより前のことについては、まだ観察対象になっていなかったので、記録がない。


 追記)なお、入間川地区には、いわゆる「スポット」が幾か所かあるので、敏感な者は注意が必要だ。下記は過去一年内で八幡神社で撮影した女の幽霊たちになる。なお、悪意はなく、「助けて欲しい」と寄り憑いて来たものだ。

「膝丈スカートの女」は令和四年十月、「事務服の女」は今年の四月に撮影した。

 

追記2)「自分は既に晩年で守るものはない」ので、数日中に確認に行くことにした。

 ま、この手のは発現する場合でも、必ずTPOがあるので、通常は何も起こらない。