日刊早坂ノボル新聞

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◎秩父大血川 煙玉編

秩父大血川 煙玉編

 秩父大血川まで紅葉見物に行ったが、しかし、既に見頃は終わっていた。

 二週間ほど遅かったようだ。

 

 いつも同じ地点に行くわけだが、一昨年には、ここではっきりと「あの世の関与」が示された。

 その前の月に、私にとっては禁足地であるところの稲荷の神域にうっかり立ち入ってしまい、稲荷眷属の障りを受け始めた。これが画像にもはっきりと表れ始めたのがこの地だった。

 以後は八か月近く障りに苦しみ、体重が十二キロ落ちた。

 この時の苦い経験があるので、もちろん、警戒心を怠ることはない。

 

 途中までは何事もなかったが、ある一瞬から状況が変わった。

 デジカメの顏認識機能がバラバラと働いたので、画像を確かめると、煙玉が出ていた。

 煙玉は基本的に自然現象で、空気圧や湿気、光の関係性によって起きる。

 たまにTPOが合わぬのに生じることがあるが、これは「何か」の活動により催起させられるものらしい。

 「何か」は「何者か」、要するに「幽霊」にという理解でよろしい。

 煙玉自体は霊的現象そのものではないが、「派生的に生じることがある」ということだ。

 たまに、自称霊能者でも、本質が分かっていないことがある。ま、偽物だ。

 

 この日、画像に煙玉が入り始めた時、家人は「傍に誰かがいるような気がした」と言う。

 家人のこの感覚は正しく、「眼」や顔の一部らしきものが出ている箇所がある。

 その後、どこでどういう角度から撮影しても煙玉が入っていたので、たぶん、ついて来た、ということ。

 ここからは直感、すなわち想像と推測による考えだが、あの場所には少なくとも少年と女児がいたと思う。

 女児が「(自分は)捨てられた」「捨てられた」と言っているような気がする。

 だが、それは女児当人の意識の持ちようの話で、実際には「埋められた」のだと思う。

 根拠を問われても答えようがなく、ただ「本人の言うことと状況を重ねるとそう見える」というだけ。

 単なる妄想と変わりないのだが、一昨年以来、この感覚はかなり精度を増した。

 これには、幽霊が触れる時の触感の区別がつくようになったことが大きいと思う。

 

 こんなことは真面目に聞く必要はなく、「そういうことを言う者(変人)もいる」程度の理解でよろしい。

 詳細に説明されても、たぶん、理解出来る者は僅か。私は幾年もあの世観察を続けているが、実際に一作年に体験したことは、それまでの想像をはるかに超えていた。

 そして、今では「必要以上に立ち入る必要はない」と思う。こちらが目を向けると、そのことに先方(幽霊)の側も気付くし、気付きやすくなるから、一定の距離を置いた方が暮らしやすい。

 

 帰路はいつも通り、いつもの蕎麦屋で新蕎麦を食べた。

 すぐ隣に鳥居があるが、これは稲荷神社の外鳥居で、一昨年までは知らずに内側に立ち行っていた。

 私は稲荷とは相性が悪く、近くに寄っただけで具合が悪くなる。

 相容れぬ者とは、無理に接触せず、距離を置く方がお互いのためだと思う。