日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎令和六年年頭にあたり

◎令和六年年頭にあたり

 皆さま明けましておめでとうございます。

 

 大晦日から元旦にかけて、私は原稿(『花のごと』)を書いていました。

 年明けから数時間が経過して、少し仮眠を取ったのですが、その時に夢を観ました。

 通常、「初夢」は元日の夜に観る夢のことを指しますが、年が明けてから眠りましたので、これが初夢になります。

 その夢の内容はこんなものでした。

 

 夢の中での私は、やはり原稿を書いていました。

 朝になり、郵便ポストに行き、賀状を運んで来ました。

 近年では、自分から賀状を出す余裕がなく、頂いた方にのみお送りしています。

 PCにはそのお返しの賀状が出ていましたので、この夢は五日頃のことになります。

 その時の文面に「今年を持って年賀の挨拶を控えさせて頂くことにしました」と記していました。お返しも含め、年賀を欠礼することにしたのです。

 「これは仕方がない。PCの前に座れる時間が少ないのだから、捨てられるものを捨てる必要がある。そもそも来年の元旦には私はもうこの世にいない」

 ここではっと我に返り、夢から目覚めたのです。

 

 これまで毎年のように「生死の境目」に接近して来たわけですが、こういう予期予感を覚えるのは初めてです。「死ぬかもしれぬ」「死ぬだろう」はあっても、「その時には死んでいる」と思ったことはありません。

 目覚めて最初に考えたことは、「それなら最後の作品をさっさと書くべきだ」ということです。

 『花のごと』シリーズは十五年くらい前から準備して来たストーリーですが、歴史に関わることもあり、史実や物証の検討を重視しており、これがここまで時間を要した理由になります。

 構想は下記の通り。

 奥州では天保の飢饉の際に数十万人が餓死しました。盛岡藩でも天保四年五年と飢饉が続き壊滅的状況を迎えたのです。楢山帯刀を始め、この危機の打開に向けて策を講じますが、自然の力には無力でした。

 時を経て、息子の佐渡の代には、いよいよ藩財政が破綻する時を迎えます。慶応末年には幕府の無策ぶりに反抗し、諸藩による抵抗が始まり、戊辰戦争にいたります。

 慶応三年には、盛岡藩は他の多くの藩と同様に、「贋金づくり」を企図します。

 この際の中心人物が楢山佐渡で、佐渡天保銭の密造を指揮します。

 『花のごと』は、佐渡の父帯刀や佐渡がどのように藩の危機と戦おうとしたのか、また周辺の侍や町人がどのように関わったのかという人間模様を描いて行きます。

 予定では八編から十二編の短編小説を折り重ねることとしていますが、これは体力的にもはや長編が書けぬ状況になっていることによります。

 楢山佐渡が贋金密造に関与していたのは、文字には直接的には記されていませんが、状況証拠的に明らかです。

 『花のごと』は「花(桜)のごとく咲き、花のごとく散る」の意味で、佐渡の辞世の句に掛けています。

 登場人物は、楢山帯刀、佐渡と、幕末明治初年に浄法寺に於いて天保銭密造を直接的に指揮することになる有坂喜左衛門、花巻の牛馬商人(馬喰)である八代及川屋清兵衛らとなります。

 

 画像は「奈落に降る雪」の冒頭部分と、及川屋清兵衛に関連する古文書となります。

 文字として記されている部分が少なく、多くが推定に基づくもので、ストーリー自体は創作になりますが、極力現状で分かる範囲の記録を踏まえることとしています。

 盛岡藩の正史には、勿論、「佐渡が贋金を作った」ことなどは一切記されていません。ただ、物証は数々残っていますので、これを繋ぎ止めるのは私の仕事だと思います。

 

 初夢で観た内容に従い、今年をもって年賀の挨拶は控えさせて頂こうと思います。

 この一年は「自分なりに、自分しか出来ぬ創作活動」に専念しようと思います。

 いつも通り、推敲したり読み返して校正を施す余力がありませんので、表現の不首尾は多々あると思います。正直、既に障害者でハンデを抱えていますので、悪しからずご了承ください。