日刊早坂ノボル新聞

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◎夢の話 第1108夜 予言

夢の話 第1108夜 予言
 七日の午前三時に観た夢です。

 眠っているが、半ば自意識が覚醒しており、自分が横になっていることを知っている。
 頭の中では「予言」のことを考えていた。

 ブルガリアの「パパヴァンガの娘」や、日本の「日月神示」には幾つか共通点がある。
 もちろん、予言はインスピレーションであり、あくまで「かもしれぬ」の延長線上にあるものだ。過去には英国の預言者(名前失念)が史上最高と言われていたが、この的中率が40%で、パパヴァンガがこれを超え70%と言われている。
 だが、人は皆「当たったものをカウントする」傾向にあるから、「的中した・しない」のみ着目するのはあまり適切な見方ではない。ブラジルの予言者やインドの少年のケースでは、沢山のことを出して置いて、そのうち「当たったものだけを抜き出して、当たったと吹聴する」。
 予言の本質であり本来の目的は「危機を予想予期し、それに備えること」だ。
 無暗に予言者の言葉を鵜呑みにするな。

 一方、妙に符合することがらがある。
1)これから人類に災禍が降り掛かる
 日本や幾つかの国では80%が命を落とす。
 パパヴァンガは「天から(隕石か人工衛星が)降って来る」。
 パパヴァンガの娘の方は核戦争が想定されることを言っている。

2)2010年頃に人体に変革が起きる
 遺伝子が替わる。
3)2020年頃に救世主が現れる
 パパヴァンガの娘は「日本の岩手県」と指定している。
 南米ホピ族の予言では、「日出国より人類を救う者が現れる」。 
 などだ。

 ここで「俺」は気付く。
 「2010年頃は、東日本の震災が起きた頃(2011)だ。東日本の人々はそれなりの量の放射線を浴びている。遺伝子レベルでの変化が生じていてもおかしくない。加えて2020年はコロナの年だった。感染すると後遺症などその後の有機体機能に影響が出る者もいる。それなら、放射線+コロナが重大な変化をもたらしたかもしれん」 
 何故日本(と岩手県)でなくてはならなかったか。
 何故「2010頃」、「2020」という時点が指摘されたか。
 これを繋ぎ止めるのは、すなわちそういうことだ。

 さてこの先は俺自身の直感による。
 「2020年はコロナ元年だったが、その前年辺りからあの世が騒いでいた。神社で写真を撮影する度に、そこにはいない筈のものが写った。これは予言と符合している」
 初期の感染者を乗せたクルーズ船が横浜に到着する頃に、神社のガラス窓には「防護服を着た男」が現れた。
 まだ日本国内の感染者が数例だった時点のことだ。

 「中国は今年から本格的に尖閣と沖縄の奪取に取り掛かる。その次が日本全域だ。当然、日米が対抗するから激突が起きてもおかしくない。そのための準備であり敵視政策のひとつが福島処理水批判だ。国内世論を反日に導いているが、辻褄が合う。自国の方が大量に汚染水を垂れ流しているのに、あえてこれを持ち出すのは、日本を敵視する口実にするということ」
 要するに、いずれ中国船が日本漁船を拿捕することで摩擦が生じ、これがどちらかの艦艇の撃沈に繋がる。

 で、紛争に発展する。
 中国人は傲慢で知恵が足りぬので、核ミサイルも平気で撃つ。
 その時は、米国も応酬するから、中国全土にミサイルが飛ぶ。日本の米軍基地や都市部にも届く。
 「で、全世界の80%が死滅する」
 これが最悪のシナリオだ。

 ま、危機が目の前に来ていれば、ひとは対応策を講じるから、その通りにはならない。ボールが飛んで来る軌跡が見えていれば、それを見て避けることは可能だ。その時に「ボールが当たったか外れたか」という見方をすることはまるで意味がない。
 ボールの軌道を予期予測して、それに備えることが重要なわけだ。
 「2020年に岩手県で救世主が生まれているのであれば、今年は四歳だ。キリストの再来らしいから、これが表に出て来るのは三十歳頃になる。2050年頃にその者が世界を導く」

 ここで夢の中の「俺」は自分自身を振り返った。 
 「せっかく救世主が生まれているのに、俺はその救世主に会うことはない。たぶん、今なら一瞥でそれと分かっただろうに」
 で、ここで思い出す。
 「前回、父に会った時に『一緒に旅行をする』と約束したから、もう残り時間は少ない。救世主が幼稚園児でも俺は見分けられるというのに残念だ」
 ここで覚醒。

 眼が覚めて、少し背筋が寒くなった。
 私が「父と約束した」のは、前回の夢の中の出来事で、目覚めると同時にそのことを忘れていた。
 だが、はっきりとはしないが、「来週」か「来月」のような近未来の予定だったような記憶がある。
 それなら私の残り時間はもう。

 追記)令和二(2020)年は「特別な年」だったが、その幕開けが一月の冒頭の画像だ。自分以外に誰もいないところで撮影したのに、もう一人の姿があった。ひとは知識や経験から外れる理解不能な事態が起きると、まず環境を疑い、次に自分を疑うから、「そこにいない筈の者がいたのだ」という当たり前の見解に落ち着くまで何か月もかかった。
 要はこれから起きることを予告していた、ということ。