◎霊界通信 「福の神」を引き寄せる
そろそろ、私が見ているものを全方向で公開することにした。
さしあたって、実家の方にも「こういう状況だ」と伝えることにした。
もちろんだが、他者に話す時には、良いことを選んで話す方針ではある。
以下は今回の内容(概要)。
一月に小鹿野町の温泉に行ったが、家族との「思い出づくり」の他に、もうひとつ理由があった。
四年前にその旅館の前で写真を撮ったが、最近、その画像の中に女の子が写り込んでいることに気が付いた。半透明なので、もちろん、生きている人間ではない。
だが、「自分にとって大切な存在」だという直感が閃いたので、無理を押しても「会いに行こう」と思ったのだ。
実際に今回も写真に写り込んでいた。
「こうだろう」と予測したことが現実になるのだから、たぶん、直観力はかなり強い方だと思う。
もちろん、あやふやで想像や妄想の延長域にあるわけだが、それを自身でも知っておりわきまえている。
「亡くなったお祖父さんが」を連発した似非霊能者とは違う。自分を霊能者と自称し、自分自身をそう信じる時点で「あの世の真実が見えていない」と感じる。
私は直感が働く方だが、全面的に信じてはいない。あやふやだし、悪意を吹き込んで来る(あの世の)者もいる。
女児の顔を見ると、次女や親父に似ている。そして二十台で死んだ祖母(父の母)に最もよく似ている。
たぶん、これは座敷童と同じような「福の神」の類だと思う。私に近しい者の姿を取るのは「味方」だから。ちなみに「守護霊」みたいな存在はない。仲間だけで、仲間はどんな境にいても見守ってくれるが、手を出して助けることはしない。助言だけで、どう生きるか、何を選択するかは当人次第になっている。
このため、いつも「傍にこの子がいる」ことをイメージして暮らすようにした。時々、左手で手を繋ぐイメージを抱くようにした。
すると、やはり徐々に状況が好転して来ている。
ゆっくりとだが、数時間ほどなら机に向かえるようになり、気分が明るくなった。
数か月経てば、「かなり良くなる」と言う実感がある。
もちろん、腎不全は治らぬし家計の大変な状況は続くのだが、絶望感がなく「これから上がって行く」気分になっている。
一番重要なことは、九月十月になっても、「自分は生きている」気がすることだ。
そういうのは、過去七年くらい感じたことがない。ま、ずっとまともに歩けなかった。今でも歩けぬが、それで凹むことはない。
俺はこの女の子を「ハルちゃん」と呼ぶことにした。
「ハル」は祖母の名で、たまたまだが、かつての俺の会社の名だった。
生きていくうえで、困難は「あって当たり前」で、それを「跳ね返してやろう」と思うことで生きる張りが生まれる。(ここまで)
これを送信したら、サイドの電話が鳴った。
あながち読みが外れてはいないらしい。この電話は回線が繋がっておらず、電源だけ入っている(机をどかさぬと抜けぬため)。
やはり今年は昇龍元年だ。徐々に体を慣らし良い作品を書こうと思う。
最後の画像は、今朝、駐車場で次女を待つ時に撮った。
こういう感じの時に、窓ガラスに人影を見ることがある。
左側に電柱があるが、このそばをよく老人が歩いている。
十年くらい前に亡くなった隣家のお爺さんだと思う。
最近はこういうのがやたら増えたが、ただの話で終わらせずに、誰の眼で見てもそれと分かる証拠を積み上げようと思う。元は不可視域の話なので、難しい。
さらに、もっと面倒なのは、世間に「誤った霊の考え方」が浸透していることだ。
数日前にテレビで、部屋の中で光が飛ぶ動画を流していたが、出演者が「オーブだ」と騒いでいた。
あれは埃に光が反射したものだ。
煙玉自体は霊的現象ではなく自然現象で、たまに「霊的なものに催起させられて生じることもある」と言う程度。ゼロではないが、何でもかんでも霊と結びつけるのは、人心を理解から遠ざける。
よって、手垢の付いた「オーブ」という言葉自体を使わぬ方が良いと思う。
あの世と上手に向き合えば、私のように「既に死期が来ているのに、なかなか死なずにいられる」。
画像はスマホサイズに縮小したもので、かなり粗くなっている。
追記)あの世を観察していると、「ある日突然、脳梗塞になって死ぬ」事態を避けられる。死ぬこと自体を避けられるかどうかは、その人自身と状況にもよるが、数か月前から、当人の死期を悟った幽霊たちが盛んに寄り憑くようになるから、それを見ることで「自分に危機が迫っている」と知ることが出来る、という意味になる。
自覚症状が無くとも「気を付ける」ようになるし、集っている幽霊を祓うと、「憑依によっていっそう死期が早まる」ような事態を避けられる。集られると、具合が悪くなるのは、これまで私の実例が示して来た通り。
死ぬこと自体は誰の身にも起きるし避けられぬわけだが、「いつ死ぬか」「どう死ぬか」は変えられる。
自分の「生き方」「暮らし方」だけでなく、「死に方」と「死後の在り方」について準備を始めるのは、「まだ健康で、死ぬことなど考えられぬ」時でなくてはならない。
重篤な病気に罹ってから、慌てて神さまにすがっても何のご利益もない。
せいぜい「ただの壺」を何百万かで買わされるだけ。
くだらぬ宗教に縋りつくのは、人生に困難や怖れ、不安が充満しているからだが、自己内省を進めず、ただ別の何かを頼ったら、それを利用する者に食いつぶされるだけ。
そして、それは死んだ後も続く。