日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊界通信 R060602 「身を軽くする」

霊界通信 R060602 「身を軽くする」
 先日、身近なところに「穴(黒玉)」が鮮明に出ていたので、気に留めていた。
 今朝の五時になり、体がとてつもなく重くなったので、少しの間考えたが、病気が原因の体調不良ではない。病気のことならベテランなので、すぐに分かる。
 そこで娘を駅に送ったら、早々にお寺に行くことにした。
 お寺に行き、ゆっくりお焼香をすると、少し身が軽くなる。

 七時に出発し、八時前には能仁寺に着いた。最近はこの寺に参詣することが多いが、これは境内に東屋があり、ゆっくり過ごせるためだ。
 車を降りると、急にデジカメがフリーズした。充電充分だったが、何か電気的エラーか。仕方なくスマホで撮影することにした。
 山門に近づくと、門の上から蜘蛛の糸が垂れている。
 本物の蜘蛛の糸だ。
 気付かずに、これが顔に当たれば、「来たか」と誤認してしまうところ。幽霊が寄り憑く時の最初の触感が、この蜘蛛の糸だ。
 門をくぐり、坂を上ろうとするが、やはり体が重くて息が切れる。
 「心臓の具合が悪いのでなければ、かなりの数にたかられているわけだな」
 三度四度と休み休み坂を上る。
 ようやく上り終えたところで、顔に蜘蛛の糸が掛かる感触を得た。
 この傍には、建物も樹木もない。
 となると、今度は本当に「蜘蛛ではないヤツに撫でられた」ということだ。
 体感の通りで、数十は後ろに従えていると思う。
 どうにも具合が悪く、「救急車を呼ぶことになるかも」と思った。

 お焼香をして、東屋に移動し、そこでひと休みした。
 椅子に座り、説得(もしくは説教)をする。
 「生きた人間に寄り憑いたところで、何も変わらない。一緒になって苦しむだけだ。それなら毎日ここでお経を聞き、ゆっくりと気持ちをほぐした方がよい。ここで降りてくれ」
 この日は自宅から温かいお茶を持参していたので、それを供えた。
 数分間を置き、そのお茶を飲みながら、取り留めのない話をした。この寺の長所は、参詣客の少ない時間帯があるので、その時にくれば、声に出して話をすることが出来ることだ。
 対話や願い事は「声に出して行うもの」で、心の中で思い描いただけでは何も変わらない。

 東屋でお茶を飲み、(傍から見れば)独り言を呟いただけだが、帰路には体の重さが半分になっている。
 「コロナの前には、週に三四回は参詣参拝していた。その理由は『必要だったから』ということだ」
 一度で「パッと全快」などしないが、半分になっただけで、絶望感が薄れる。
 車でこの寺に来る途中には、「道の端に寄せて、少し休もう」と幾度も思った。
 経験したことの無い人には伝わらぬと思うが、50キロくらいのバーベルが、片方5キロの鉄下駄くらいに軽くなる。
 (例えが分かり難いかも。W)

 

 その後で、高麗神社に参拝し、セルフチェックをした。
 煙が出ているので、スマホでなく、高性能デジカメで撮影すれば分かりよかったかもしれん。
 ま、他人が見てどう思うかはどうでもよい。
 画像の印象を語り合ったところで何の意味もない。
 腕や背中を「触られている」という現実は変わりないし、これは他人には伝わらない。

 帰り際に、車に乗ると、胸のスマホに勝手にスイッチが入り、声を上げた。
 「※※※※してけねか」
 冗談が効かぬし、作り話でもない。
 こういうのは、稲荷の障りに苦しめられた時以来、二度目だ。
 スマホから声が出るのは、音声パターンを発する時などだが、「してけねか」というのは方言だ。音声パターンに方言はないと思う。
 ちなみに、文字で書くと平坦に読めるが、実際の音量は、周囲に響き渡るくらい大きい。
 気持ち悪いというより、むしろ納得した。
 何か頼みたいことがあるから、「足を止めて、自分の話を聞いてくれ」としがみ付くわけだ。
 女で40台から50台。ガラス窓画像にも出ていると思う。
 もっとも、画像だけで判別するのは、至難の業だ。
 最初、四五千枚くらいまでは何が何のサインなのか、まるで分からなかった。ほとんどが「もやっとした煙」だ。
 触感と声を足してみて、初めてそこに何か(誰か)がいると推定出来る。

 幽霊は「心だけの存在」だ。心は波の性質があり、音と同じように振動を発する。同じ周波数の振動を感じ取ることで共感し、相手の存在を知ることが出来る。
 心は誰にもあるから、幽霊の存在を検知出来ぬのは、共感(共鳴)出来る周波数域ではないということ。
 その意味では、霊感は誰にでもあるが、感じ取れる範囲はそれぞれ異なる。もちろん、これを能力と認識するのはナンセンスで、あの世について何ひとつ知らぬ者の言い草だ。

 昼から予定が入っていたが、雨が強くなったし、あの世対策を立てる必要が生じたので、総てキャンセルした。

 

追記1「してけねが」は郷里で多用するが、他の地域でも使いそうだ。前半が分かればよかったのだが、突然だったので聞き漏らした。

 それだけでなく、「もの凄くたかられている」という実感がある。

 困ったもんだ。こういうのを綺麗にしないと、お稚児さまの効能が役立たない。

 いつかはあの世の者に負け、あちらの仲間になる。今のような状況になると、「いよいよその時が来たか」と危惧する。何故なら二週間前に「こうなる」ことを夢で示唆されていたからだ。ここに来て「やっぱり」と思う。

追記2)傍から見ると、「死期の迫った者の心神耗弱状態そのもの」なのだが、他人事としてみればその通りだ。

 当人的には、「気を抜いたら一日で持って行かれる」で、これも事実だ。