◎夢の話 第1152夜 山の精霊
11月4日の午前4時に観た夢です。
東海道一帯にある公会堂や集会施設には用途の分からぬ部屋がある。30畳ほどの広さだが、がらんとした空き部屋だ。
普通の用途ではないと分かるのは、床に排水設備が備え付けられていることだ。
これは大規模災害の到来に備え、病院等の医療施設が使えなくなった場合を想定し、いざという時には臨時の救急救命室などとして使えるように作られたものだ。
不幸にして多数の死者が出た場合には、遺体の安置場所にも使える。
その不幸なケースが現実に起き、集中豪雨による洪水で170名が流された。警察や自衛隊が出動し、被害者の回収に当たったが、大人数なので、この街の公会堂を使用することとした。
大ホールが痛いの安置場所で、あの部屋が検死用に使われることになった。
俺は警察の監察医で、被害者の検死に当たることになり、この公会堂に赴いた。今も道路が分断されており、外部からこの街に入るのは困難な状態なので、検死担当は、上司の女医と俺の二人だけだ。上司の柏木は37歳、俺は33歳だから、両名ともまだ若手だ。
大ホールには五十を超える遺体袋が並んでいる。
この遺体を前述の検死室に運び、そこで清浄し、検視したうえで死因等を特定し、報告する。それが俺たちの務めだ。
市の職員が順番に遺体を運び入れるが、一人ずつ服を裁断し裸にしたうえで、体をきれいに洗い、死因を特定する。
十体を検分したところで、俺は共通の特徴に気が付いた。
「洪水に流されたといっても、溺死するわけではないのですね。殆どの人が水を飲んでいない」
これに上司が反応した。
「あなたはこういう経験は初めて?」
「はい」
「洪水に流されたと言っても、溺れてなくなるわけじゃない。石や岩など障害物に衝突して、全身の骨が砕けて亡くなることが多いのよ。頭を打ったりして気を失ってしまうから、水を飲むケースの方が少ないわ」
「流れている水は、普段の姿とまるで違いますね」
よく「人が川で溺れる」ニュースが流れるが、あれは澱みに嵌って溺れるよりも、浅いところで起きることが多い。多くは膝くらいの深さしかないのだが、かなり急流になっている場所だ。
足を取られて倒れると、そのまま横になった状態で流され、起きるおkとが出来なくなる。その間ずっと頭が水に浸っているから、そこで溺れる。渓流で溺れてしまうには、深さが30センチもあれば足りるのだ。
今、俺の目の前にいる被害者たちは土石流に近い状態の洪水に襲われた。だから石や流木に叩かれ、全身が傷だらけになっている。腕が取れた者も時々いて、中には頭が半ば潰れてしまった人もいる。
「さすがにゲンナリしますね」
「可哀想ですね。さぞ苦しかったでしょう」
30体を過ぎたところで、職員が新しい遺体を運んで来た。
「まだ若い子なのに気の毒です」
担架から遺体袋を寝台に移しながら、職員がそう漏らした。
袋に入れるところを見ていたようだ。
ファスナーを開けると、中は高校生くらいの女子だった。
「顔に傷がありませんね」
「本当ね。こんなにきれいなのは珍しいわ」
顔立ち自体も清楚なつくりだった。
娘はグレーのジャージにGパンを穿いていた。
検視のため、すぐに俺がこの娘の服をハサミで切った。
全裸にしてみたが、そこで俺は驚いた。
「柏木さん。この子は体にもまったく傷がありませんよ」
この時、柏木先輩は遺体の状況を見ると、俺同様に頭を傾げた。
「皮膚にも変化がないわ。水の中にいたとは思えない。うーん」
柏木先輩は娘の頸元を検める。
「柔らかいわね。まるで生きているみたい」
「違和感を覚えるのはそこですね。何だかこの子は死んでいるようには思えない。心臓が止まっているんですけどね」
「他の人と違い何ひとつ傷が無いからじゃないの。これは丁寧に中を検めないと」
柏木先輩はサイドテーブルに置かれたメスに手を掛けたが、ここで壁の時計に眼を遣った。
「今始めたら、あと二時間はかかりそうだから、先に少し休憩しましょうか。もう午前一時を回っていることだし」
何せ被害者の人数が多いから、俺たちは20時間ほど通しで働いていた。
ここで俺たちは作業を中断し、30分ほど休憩することにした。軽食を摂り、少しだけ横になって休む。
ホールでは職員たちが被害者の情報整理をしていた。遺体に番号を振ったり、身元を調べたりする。
俺は先ほど遺体を運んで来た職員に、高校生のことを訊いた。
「さっきのあの子にはほとんど傷が無いのです。あれはどこで発見されたんですか」
「川辺から被害者を引き上げ、川原に並べてあったのですが、その中に混じっていました」
「混じっていましたってのは?」
「誰もあの子を引き上げた覚えがないのですよ」
「実際、流されたって感じじゃないですね」
「じゃあ、死因は?」
「まだ特定できていないんです」
「そうですか。あの地区の住民の中にはあの子に該当する人物がいないんですよ」
「え。じゃあ、どこから?」
「たまたま遊びに来ていたか。あるいは旅行者が巻き込まれたかですね」
「正体不明の女子がよく分からない死に方をしたわけですね」
ここで職員が妙なことを言い出す。
「あの地区の裏に大浦山という山があるのですが、そこには昔から山の精の言い伝えがあります。あの山には精霊がいて、時々、そいつが人間の姿で里に下りて来る。子どもだだったり女性だったりと様々です。今僕らが噂していたことですが、あの娘はたまたま里に下りていた山の精霊じゃないかと思うのです。土砂災害なのに、あの子の顔には傷ひとつなかったですよね」
「確かに、どこにも傷はありませんね」
もしあの子が山の精なら、傷が無いのではなく、傷が付かないかすぐに治ってしまうということだ。
ま、そんなのは有り得ない。いずれにせよ解剖して見れば何か分かるかもしれん。
ここで俺は自販機のところに行き、コーヒーを買った。
長椅子に座り、コーヒーをゆっくり飲む。
ぼんやりとロビーを眺めていると、遠くの出入り口の方に、柏木先輩の姿が見えた。白衣姿の女性が玄関から外へ出て行くところだった。ここで白衣を着た女性は柏木さんだけだから、あれは柏木先輩だ。
だが、椅子から立ち上がろうとすると、奥の事務室の方から柏木先輩が姿を現した。
「あれ。今、先輩は外に出られたと思ったのですが。こちらにおられたのですか」
先輩は白衣を着ていなかった。
「顔を洗って、少し休ませて貰っていたんだけど、入り口にかけて置いた白衣が無いのよ。無くなっているの」
俺はすぐにピンと来た。
「すぐに処置室に行きましょう。あの子はきっと」
二人で処置室に向かう。
俺が想像した通り、手術台の上からあの子の姿が消えていた。
「どうなってるんだろ」と先輩が呟く。
俺は職員の言葉を思い出した。
「あの子は人間じゃなかったかもしれませんね。山崩れに巻き込まれて、あんな状態でいられる人間はいません」
里へ下りていたが、たまたまそこで災害に遭った。
ダメージが回復するのを待ち、元に戻ったので、山に帰ったのだろう。
俺はここで安堵のため息を吐いた。
「ああ良かった。すぐに解剖しなくて。もししてたら、生きている山の精霊を俺が殺していたかもしれしれない」
山の精霊は、清楚な顔立ちで、見事な肢体の持ち主だった。
俺はこの先長く、あの子の姿を思い出しては、悶々とすることになるだろうと思った。
ここで覚醒。
能登の豪雨の時に、女性中学生が流され、幾日も経ってから海で発見された。それが可愛らしい女子で、「この子が生きていれば、この先どんな輝かしい未来があったことか」と哀れに思った。
その時の心情がこういう夢を観させたのだろう。