日刊早坂ノボル新聞

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◎奥州大型七福神銭

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奥州大型七福神

◎奥州大型七福神

 この大型の七福神銭は東北地方で作られたものだが、詳細は分かっていない。

 南部銭の銭譜には、従来より知られた大型七福神銭(銅鉄)があるのみで、この型の記載はない。

 最初に入手出来たのは、③の「浄法寺写し」で、その後、数十年をかけて1枚ずつ探し出した。

 各地の収集家を訪ね歩いて状況を確認したが、岩手県内には浄法寺鋳を所有している人が数人、宮城県内に本体銅銭の銭拓が残っているだけで、なかなか巡り合えない。

 とりわけ、鉄銭の所在が焦点のひとつだったのだが、ついぞ見つけることが出来なかった。

 

 みちのく合同古銭大会の記念銭譜に、これと同型の拓本が掲載されているので、仙台の古銭会を訪問したことがあるが、「南部のものでは?」という意見だった。

 南部では逆で「仙台が出自では?」という意見だったから、途方にくれたが、その後、母銭を入手できたので見当がついた。

 銅母の地金を見る限り、これは江刺地方の絵銭である。

 江刺地方は、元々は仙台藩の領内なのだが、今は岩手県に属している。絵銭等は独特のものが作られているようだから、なるほど「仙台でも盛岡でもない」という見解が生まれて来るのだった。

 南部(盛岡)でも仙台でもないなら、それと分かる標識を付ける必要があるが、江刺地方は現在、奥州市に含まれるから、「奥州七福神銭」と仮称することにした。

 製作された時代を測るべく、手を回して来たが、結局、よく分からない。

 派生した品が多岐に及んでいることから、「新しいものではない」ことが分かるが、どのくらい古いかが分からない。ひとつの手掛かりが「鉄銭の有無」で、その製作を見れば、ある程度推測できるのだが、鉄銭は結局見付からなかった。

 七福神銭は、ありふれた銭種のように思われがちだが、少し製作がずれると、存在はかなり希少である。

 入札等で入手出来たのは、②の銅銭のみで、あとは収集家を訪問して譲り受けた品である。ちなみに、オークションでは古道具屋さんが出品していたが、雑絵銭の扱いだった。

 単体の画像ではサイズが分からないのが幸いした。

 

Ⅰ 基本銭種

 様々な銭容があるため、1)本体、2)浄法寺写し、3)その他の写し、について紹介していく。

1)本体 

 母銭(①)、通用銭(②)とも地金が白っぽく、黒い古色が乗る。

 母銭の背は「見事」な製作で、内郭・輪とも丁寧に仕上げられている。

 銅銭の方はよく使われており、時代色が鮮明である。輪側は斜め鑢。

 

2)浄法寺写し

 浄法寺の写しについては、一枚の銅銭が原型となりそこから派生したようで、背の右下に必ず小さい突起がある。

 当百銭にこれと製作が一致するものがある筈なので、別項に検討結果を記す。

 ④は半仕立てのチョコレート色のタイプである。

 

3)その他の写し

 浄法寺写しの他に、鋳所・年代の不明な写しが存在しており、明治後半から昭和戦前にかけて写しが作られたようだ。

 ⑤は割と整った品で、⑥はその写しになる。おそらく⑥は昭和のものだろう。

 銭径に違いがあり、何段階か写しが作られているようだが、存在数自体は少ない。

 ⑥は所謂「加賀出来」によく似ているが、これも市中で見掛けることは無い。

 

4)別銭類

 この大型銭をモチーフに作られたらしい、後発の絵銭類が存在している。

 盛岡藩領内の大型七福神ではなく、こちらが手本となっているようで、作風(意匠)に少し似たところがある。

 ⑦については、昔、古銭店主が「これは明治後半のもの」と断言していた。実際、戦前の銭譜にも掲載があるようだ。だが、その後も写しが作られており、昭和のものもある。

 ⑧も初発は明治末くらいだろうが、昭和以降も作られている。図案が浅いので作りやすいのだろう。

 

Ⅱ 浄法寺銭の比較検証

 この銭種については、存在数が少ないことから、研究としてやれることが少ない。

 唯一、浄法寺写しについては、発見時以降、十数品は確認されていると思われる。

他に当百銭、絵銭等が出ているので、これと比較することで「どの品を作った時に作ったか」を推定することが出来る。

 ア、イは山内座のもの、すなわち藩鋳銭である。

 ウ以降が、称「浄法寺写し」となるわけだが、こちらの製作手順は「少なくとも四通り」の製作工程が存在し、同時に作られたものではない。すなわち、少なくとも四回以上の鋳銭が行われた、ということだ。

 

 さて、製作の類似性を見る上で、最も簡単な手掛かりは、「谷部分の鋳肌」である。この位置は、手を加えることをしないし、湯温の高低や素材の違いが反映される。

 結論のみを記すと、大型七福神銭の③浄法寺写しに最も近いのは、ウ)仕立て流通銭であり、これに次いでオ)、カ)の順となる。

 銅銭の場合、湯温を極力下げると出来上がりが滑らかになる。かたや湯温調節がうまく出来ない時には、温度を上げ、湯流れをよくする。

 ウ)は東北地方の外で見つかった品で、実際に貨幣として使われた品だから、製作年代はある程度古い。この時点で「少なくとも明治二十年代から三十年の間」と見込むことができる。③は「それ以前に作られた」可能性が高く、「その後」ではない。

 目視による印象では、オ)の「半仕立て」が似ているように感じるが、実際は少し違う。

 やはり印象で判断してはダメで、きちんと手続きを踏んで検証する必要がある。

 

 追記)ブログだけの笑い話

 こういう希少品になると、入札やオークションに出て来る可能性は殆どない。

 そこで、持っていそうな収集家宅を回り、あれば「譲ってください」と依頼することになる。もちろん、蔵主の「言い値」が条件になる。「幾らでも良いですので、お好きな価格で引き取ります」ということ。それが当たり前だ。

 ところが、ある収集家のところを訪問した折に、この七福神を見せたところ、銅母を指差して「これを2万円で譲ってください」と言われた。

  購入価よりもかなり下だ。しかも、入札等を経たわけでは無く、二度三度と蔵主宅を訪問し、やっと得た品だ。

 呆れるのを通り越して、思わず笑ってしまった。

 浄法寺鋳の③なら、おそらく市中に5、6万で出た筈で、私もそれくらいで入手した。④の方は2、3万だ。南部天保の存在数と価格と比較すれば、かなり安く入手した方だ。称浄法寺天保は三百枚から四百枚あったわけだが、この品は十数枚。

 ところが、本体の方はおそらく数人しか所有していない。母銭はこの品きり。

 私も十数人の収集家の家を直接訪ね歩いて、ようやく入手した。

 未見品をどのように評価するかで、その人がどれくらい調べているかが分かるが、「2万」の収集家は「絵銭だ」と思って甘く見ていたらしい。

 そもそも、それでは電車賃の片道にもならず、品代が無料の設定だ(大笑)。

 こんな奴に渡したら、こちらは奴隷以下になってしまう。

 でも、収集家にはこの手の奴が多い。自分は座っているだけなのに、高いの安いのと文句を言う。腹の中で悪態をつくが、もちろん、口には出さない。

 

 それなりに所有者のいる浄法寺銭で5、6万なら、それよりはるかに存在の少ない本銭やその母銭はどう評価すべきか。大体は想像がつく。

 想像がつかないのは、オークション会場にしか行ったことが無いからだ。

 さて、そろそろ収集を止めてしまうのだが、もちろん、入札等に出すつもりはない。

 数十年の労力を、座っているだけの者にやすやすと渡すつもりはない。

 知見はオークション会場には無く、足と撰銭で得るべきものだ。