日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「納戸から出た雑銭」(続3)

◎古貨幣迷宮事件簿 「納戸から出た雑銭」(続3)

 日によって体調が芳しくないことがあり、昨日は通院後は寝たり起きたりだった。

 ま、先月初めは、今現在、こうやっていること自体想像できないくらいだったから、回復には時間が掛かる。もちろん、全快することはなく、次に発症すれば間違いなくアウトだと思う。あれこれ調べると、持病に加えワクチンの副反応が重なっていたようだ。私とまったく同じ経過を辿り、寝たきりになっている人が少なくないらしい。

 症状はコロナ肺炎に感染した時と殆ど同じだ。熱がそれほど高くないだけの違いで、肺症状は同一になっている。

 ま、今後も生きられるように生きるしかない。

 

 さて、ビニール袋入りの雑銭は、NコインズOさんが亡くなった後、所沢の倉庫に仕舞われていたものを、ご遺族の要望で雑銭の会を中継して分譲したものだ。

 ざっと二百数十キロで、後ろに乗せると車の重心が傾き、タイヤ一本だけがひしゃげたので、運転に気を遣った記憶がある。

 ちなみに、「どうせ雑銭主体の処分なら」ということで、事務局が保存していた品も併せて売りに出した。

 基本は業者さんの倉庫にあった品なので、「見たカスかもしれん」と思ったが、業者さんは雑銭一枚一枚を手に取って検分したりはしない。最初から値段の付いている品を買い取った時は別だが、グロス勘定で利益を出す方が簡便だ。そのためには、なるべくあれこれ混じっていてくれた方が売りやすい。

 ま、ひときわ「立って」いれば話は別だ。母銭は周囲の銭の間から立ち上がっているのですぐにそれと分かる。

 農家なり商家なりの旧家から出たばかりなら、状態に関わらず枚単価で三十五円が下値で五十円近くまで行く。百五十年そのままの品が最も評価され、人の手を介するごとに値を下げて行く。骨董会を経て、古物商に渡り都市部に出た時には、実はかなり値を下げている。

 もちろん、その途中で母銭などめぼしい品が消えている。値が下がるのはこのためだ。母銭であれば、買い出しの業者でも判別がつく。一方、細かい銭種区分はされぬから、細分類や手替わりなどはそのまま残っている。

 Oさんも自身の関心と取り扱い分野は主に「奥州の品」で、そのためか「古寛永などは対象ではないのでそのまま出す」と言っていた。実際、一枚二枚の役付きの品を分離して売りに出すより、総て一括で売却した方が益率が高い。ま、グロス勘定だが、いくら説明しても、収集家には理解されなかった。ま、見ている品が「百枚」の者と「万枚」の桁の者では、発想の土台が違う。(収集家を卑下しているわけではなく、ビジネスの質について言っているので、念の為。)

 

 ごみの入り方や紐の断片により、元は「農家の小屋に仕舞ってあった」ことが分かる。こういうのは経験だから、現地に行かぬ者に説明しても分からない。

 

 以下は雑銭の思い出だ。

 幾度か記したことがあるが、盛岡八幡町の骨董「力」さんを訪店すると、K岸さんが私に言った。

 「北上に買い出しがいて、古銭を出したばかりだが、入用なら紹介してあげます」

 確か十二月か一月で、かなり寒い頃だ。

 「ではよろしく」と一緒に出発したのだが、たまたまその時に私の車の暖房が壊れてしまい、震えながら北上まで運転した。

 買い出し業者さん宅を訪問し、品物を見せて貰ったが、煤だらけの汚れた雑銭で、「幾らか火に入っている」ような印象だった。これが確か三千枚くらい。

 記憶が薄れているので正確ではないが、確か枚単価で五十円に近い金額だったと思う。だが、状況を聞くと、「古屋下げ」で出たものではなく、旧家の梁に架けてあったのを買い取ったらしい。

 「状態に比べるとやや値が強い」と思ったが、もちろん、引き取った。初対面でもあり、黙って買って置けば「次」のきっかけが生まれる。まずは「知り合いになる」というのが重要なファクターだ。

 それから、盛岡に帰り、K岸さんを店まで送り、謝礼を二分お渡しした。

 わざわざ一緒に行ってくれたのだから当たり前だし、損得は関係ない。

 この辺は「顔を出す度に何かを買い求めること三年五年」で、ようやく品物を融通して貰える常連客になれる。奥の金庫の取り置き品を見せて貰えるようになるのは、それから後だ。

 実家に帰り、煤だらけの古銭を拡げてみたが、ちょうど囲炉裏の上の方に吊してあったらしい。幾らか熱を帯びた痕があったが、火中品ではなかった。

 南部に一文銭のめぼしい品は無いから、そっちは見ずに当四銭に眼を通すと、あんれまあ、踏潰が数十枚混じっていた。おまけに大型の濶縁銭だ。既にかなり前のことでもあり、正確な枚数は忘れたが三十枚近くだったと思う。お馴染みの銭種に加え、俯永もあった。

 面白く思い、数日後、花巻のNコインズに行き、この件を報告した。

 するとOさんは即座に「今、ちょうど踏潰の注文が入っているから、これはどうか私に引き取らせて欲しいのだが」と依頼して来た。

 Oさんには人脈があるので、むしろ好都合だ。「じゃあ、今回は一本貸しですよ」と枚単価五千円くらいで全品渡した。

 「お互い様」が成り立つ関係が最も望ましい関係だ。入手品を数日で売り渡すのはあまり褒められたことではないが、ま、こういうこともある。

 こういうことの積み重ねにより、南部銭のこれという品は最初の方に見せて貰えるようになった。収集家なら関西のHさん、当時川崎にいたOさん、それと私が先だ。

 

 とまあ、ここまでが単なる収集家の昔話だ。

 ピンと来る人は「北上から出た雑銭に踏潰が混じっていて」のところでハッとしたと思う。

 逆にこれで響かぬようでは、いつも「手の上の銭ばかり見ている」者ということだ。

 踏潰は、かつて鹿角地方の雑銭に沢山混じっていた。鹿角は現在秋田県に属すから、そのことで「秋田踏潰」と呼ばれていた時期もある。

 ところが藩政時代には、鹿角は盛岡藩のうちとなる。昔の藩境は極めて厳密だから、隣藩の家が目視できる範囲にあっても、一切交流することが無かったそうだ。

 なぜ鹿角地方に重心を置く踏潰が花巻や北上(鬼柳以北)でよく見つかるのか。

 これは地方誌を学んでいれば容易に想像がつく。

 「鹿角郡の統括を任せられていたのは、花巻(鳥谷ヶ崎)城代だった」ことで、政治経済の交流が盛んに行われていたということだ。

 花巻商人と鹿角商人の取引が多かったのは、政治的に近かったことが背景にある。

 こういうのは手の上の銭を幾ら眺めていても得られぬ知見だから、地方史に関する知識に触れて置く必要がある。古銭書には訳の分からぬ想像が書いてあったりするから、鵜呑みにすると大恥を掻く。

 

 脱線した。

 雑銭はグレードに応じ、順次、放出するが、「売り立て会」の時に購入した経験のある会員には優先してお分けするので、ウェブの連絡欄から申し込んでください。いずれかの出品掲示よりも先に譲渡します。大したものはないと思うので、安価な設定となります。

 

注記)いつも通り、推敲や校正を一切しないので不首尾はあると思う。