日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎ゲゲゲの一家

ゲゲゲの一家

 昨夜、家人がダンナに向かってひと言。

 「最近のオトーサンは、ゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪みたいだよ。ほら、何だっけ、あの・・・」

 すぐにピンとくる。

 「こなきジジイ」

 このやろ。昨年一年で髪の毛がごっそり抜けて、「ほぼハゲ」が事実になったから余計に腹が立つ。

 「お前だって砂掛けババアそっくりじゃねえか」

 

 ここではっと我に返る。

 「おお、それじゃあ、世間的には似合いの夫婦ということだ」

 子泣きに砂掛けはワンセットだよな。

 

 「妖怪そっくりになって来た」はあながち的を射ているかもしれん。既に背中に貼り憑かれているわけだし。

 他の者に幽霊や妖怪は見えぬわけだが、見ていないようでいて、サブリミナル効果みたいに、無意識の目で見ているのかもしれん。

 私は心臓が悪く、元々が「死人顔」「ゾンビ風」のいでたちだったが、ここに来て「妖怪」か。

 なんだ。それなら大して変わりはしねえや。

 

 前にも書いたが、郷里岩手の実家から八十㍍くらい南側に蘆名橋という小さな橋があり、その橋の下に小さな祠がある。

 地元の伝説を紐解くと、「妖怪の小豆洗いが出たので、それを鎮めるために建てた」という。

 小川のせせらぎが「小豆を洗う音」に聞こえたわけだが、そういう話が生まれたのは、やはり飢饉の頃だ。

 飢えて食う物が無くひもじいから、そう聞こえた。

 今の人は皆がこう思う。

 

 だが、最近はそれを疑うようになった。

 そんなのは今を生きる者が小さい前頭葉で考えた小理屈だ。

 「妖怪など存在しない」という大前提があるから理由をこじつけるわけだが、どっこい、この世の者ならぬ妖怪は存在している。そっちが現実だ。

 もちろん、具体的に「小豆洗い」という妖怪がいるかどうかは分からぬが、否定するなら「いないからいない」ではなく、何故「小豆を洗う音」だったかをきちんと掘り下げる必要がある。

 どんなに腹が減っても、小川の水流の音が小豆を研ぐ「ザクザク」という音には聞こえぬと思う。川のせせらぎの音ならそれこそ周り中で聞こえるから、理由にはならない。

 

 以上は、子泣きジジイによる感想だ。 「蘆名橋」については、伝説をそのまま短編小説に書いたことがある。

 地誌を丁寧に読むと、思いがけぬ発見があり楽しい。