◎夏の恐怖体験2)岬にて
夏期に実際に経験した恐怖体験を記す。この出来事については、幾度かブログに書いたが、改めて整理したうえで、追って恐怖小説に直そうと思う。
これは息子がまだ一歳の時の出来事だから、二十年以上前の話になる。
一家で北奥の奥入瀬渓流や十和田湖を回り、三陸海岸に出て南下していた。私の実家は盛岡にあるから、そのまま小本か宮古まで行き、そこで西に進み帰宅する行程だった。
ある岬を通り掛かったのだが、その岬の突端に和食屋が見えた。
ポツンと一軒だけ食堂が建っていたのだ。
私は「岬の先だから見晴らしが良さそうだ」と考えた。
実際、近くまで寄ってみると、建物は岬の先から半ば飛び出しており、展望レストランのつくりになっていた。
私は妻と娘二人、息子一人を伴ってその店に入った。
十和田湖からの移動に時間が掛かったので、店に着いたのは午後三時過ぎ。四時近くだった。
店内に他の客はいなかったが、食事時を外れていたからだと思った。
せっかくなので、いちばん外側の席に座ることにした。
海側は全面ガラス張りで、壁全体が窓になっていた。
窓の外には、水平線が遠くに見える。
程なく給仕の小母さんが来たので、各々があれこれ注文した。
お茶を飲みつつ食事が来るのを待っていたのだが、何だか居心地が悪い。
どこがどうと言うわけではないが、胸騒ぎがする。
長い時間運転したので、私はまずトイレに行った。
だが、トイレはトイレで、何だか薄気味悪い。ちらと昔の小学校の薄暗いトイレを思い出した。
古い小学校でトイレが暗い。あの頃はそのトイレが怖くて、小用もそそくさとしたし、大を催しても絶対に学校ではしなかった。
トイレから出て、自分たちの席に戻ったが、その場所に座ると余計に気が重くなった。
ここで、急に息子がぐずり出した。
息子は席に座ると、少しの間窓の外を見ていたが、急に泣き叫び始めた。
それも「身をよじって」叫ぶ。
「うわあ。うわあ。ぎゃああ」
抱き上げてあやしてみたが、まったく泣き止まない。
腕の中でも、まるでそこにいるのが耐えられぬと言うように体を曲げて泣く。
これでは埒が明かぬので、妻が食事をする間、私が息子を抱いて、店の外に出た。
店の玄関を出ると、陸側の沿岸道路になるが、そこで息子がぴたっと泣き止んだ。
しばらくそこに立っていると、十歳の長女が私を呼びに来た。
「お母さんが、もう替わっても良いって」
そこで、息子を抱いたまま、店内に戻ったが、息子はその席に近づくと、再び火の点いた勢いで泣き出した。
「どうしたのかしらね」
「外に出ると泣かないから、車の方に行ってて」
妻が息子を受けとって、店の外に出て行く。娘二人も食事を終えると、妻のいる方に向かった。
そして、その席には私一人だけになった。
そこで私はようやく磯料理を食べ始めたのだが、どうしたわけか、窓の外が暗くなっている。
「ついさっきまで晴れていたのに」
ま、山の天気と同じで、海辺の天気も急変することがある。元々、この地方は「やませ」と呼ばれる霧が出るのだが、それが出て来たので、日光が遮られ、日が翳ったようだった。
お盆を過ぎると、この地方はもはや秋だ。ま、空では稲光が光り始めていたから、「やませ」ではなかったのかもしれない。
ピカピカピカッと稲妻が光り、しばらく後で「ドーン」という雷の音が響いた。
「こりゃひと雨来るかもしれん。早いとここの地を去った方が良さそうだ」
何とも言えぬ不快な感覚が、さらに私の背中を押した。
程なくその不快さの原因が分かった。
「何だか海の方から誰かが見ているような気がするぞ」
何とも言えぬ「どろっとした重い視線」を感じるから、不快な気持ちになるのだ。
ご飯を概ね食べ終わり、食後のお茶を飲んで、腰を浮かせた時のことだ。
私は窓の外を向いていたが、外の上空に大きな稲光が走った。
周囲が薄暗くなりかけていたから、壁面(窓)全体が光り輝いた。
すると、ガラス窓のすぐ外側に、室内を覗き込む何十と言う顔が見えた。
窓一杯に鈴生りの顔が広がったのだ。ホラー小説ならその幽霊たちが怨念の表情を浮かべていたと描写するだろうが、本物のそれはただひたすら「無念」の顔だ。要は「死にたくない」「滅びたくない」という感情だ。ひと目で「これは生きている者の顔ではない」と分かる。
一瞬のことだが、別の何かを見間違えたものではないと確信した。
私は急いで入り口のカウンターに行き、給仕の人を呼んで金を払った。
その時、自分が何を見たかは言わなかった。
こういうのは人を選んで出るものだし、店の営業が出来ているのだから、ここでは気付かぬ人の方が多いということだ。あるいは気付いている人もいるのだろうが、私ほど影響を受けるわけではない。
そこの人が見えぬ者を「見た」と言ったところで埒は開かぬし、言われた側の立場になれば、不快な気持ちになるだけだ。
私は玄関の引き戸を開き、外に出ようとした。
その時、頭の中に大音声で「声」が響いた。
「これはけして気のせいではないぞよ。その証を立ててみせよう」
語尾の発音は「みしょう」で、昔の言い方だったが、老婆の声だった。
車に乗り、直ちに発進させたのだが、百㍍も行かぬうちに「それ」が起きた。
片側一車線の道路だったが、対向車線に大型トラックが向かって来るのが見えた。
そのダンプが三十㍍手前に差し掛かると、道路の反対側から、赤茶色の大型犬が飛び出して来て、ダンプに撥ね飛ばされた。犬はこちら側の車線にまで飛んで来て、私らの乗る車の前に落ちた。
背骨が曲がっており、即死の状態だが、その場ではまだヒクヒクと動いていた。
咄嗟のことだが、犬はまるで何かに引っ張られたようにダンプの前に転がり出たのだった。
さっきの声が「証」と言ったのは、この犬のことだった。
私は路上の犬を迂回して、早くその場を離れようと、ひたすら先に進んだ。
これが、実際に体験した出来事の内容だが、妻も似たような体験があるらしい。
独身の頃、妻は友だち五人と連れ立って、北陸まで観光に行った。
東尋坊を見学し、その日は海辺の旅館に泊まった。
その夜のことだ。
夜中に妻が目覚めると、暗い部屋の中に何者かが立っていた。
シルエットでは年老いた女の姿だった。
その老婆は、寝ている友だちの顔を一人ひとり覗き込んでは、何事かを呟いていた。
端の方から同じことを繰返し、次第に自分の方に寄って来る。
いよいよ隣の子の番が来たが、怖ろしいと思いつつ薄目を開けて隣の子の顔を見た。
その娘は霊感の立つ方だったが、両眼を真ん丸に見開いて、老婆を見ていた。恐怖で顔が引き攣っている。
次に妻の番が来て、老婆が自分の上に立った。
妻は両目を固く閉じ、ひたすら眠ったふりをしていた。
すると、老婆が腰を屈めて自分に顔を近づける気配がした。
そして言った。
「私は地震の時に海辺で死んだ者だ。これが嘘ではない証を見せてやるぞよ」
そう言うと、老婆は去って行った。
翌日のことだ。
朝、妻たちが旅館を出ようとすると、旅館の人が慌てふためいていた。
玄関先で犬が死んでいたのだ。犬はむごたらしい殺され方をしており、玄関の扉に血飛沫がぺったりと飛んでいたそうだ。
妻の体験談は、岬の展望食堂の出来事の後で聞いたのだが、私はその瞬間、戦慄を覚えた。
いずれも老婆で、言葉遣いが似ている。犬が死んでいたのも同じだ。
妻の話が作り話ではなく実際に経験したことだというのも、瞬時に理解した。
妻は外国籍なので、この地でかつて福井大地震があったことを知らない。
ある意味で、私と妻は似たもの夫婦なのだと思う。初対面の時に、五分くらいで「たぶん、この人と結婚する」と思ったのだが、実際、三か月後には入籍した。
それにはそれなりの理由と背景があったのだ。
違いは僅かで、妻の後ろには妻を守ろうとする霊たちがいるが、私の後ろには悪霊や浮かばれぬ霊が寄って来るということ。私に会った人が好ましからぬ圧力や不快感を覚えるのはその影響だと思う。
私だけでなく「何かが見ている」から、どろっとした不快感を覚える。
だが、先方にとっては私は彼らにとって仲間であり理解者で、彼らもそれを承知しているので、どんどん私に関わろうとして来る。今では、私が家の台所に立つと、カウンターの陰からいつも誰か(何か)が必ずこっちを覗き込んでいるようになった。無視するが、家族と間違えて、うっかり声を掛けてしまう時もある。
さて、岬での体験は、現在書いている「怪談」に組み入れるが、小説なので、結末を少し加筆するつもりだ。
「ほうほうの体で逃げ出し、ようやく家に戻って来た。そこでひと安心したが、何気なく窓の外を見た時に稲光が光った。八月の下旬なので雷の生る季節だ。すると、窓一杯に鈴生りの顔が・・・」。
ちなみに、後で岬の近くに住む知人に聞いたが、あの岬の崖の下は、地元では割と有名な自死者の出る「スポット」らしい。魚が沢山獲れるポイントでもあり、釣り人も多いが、知人が棹を振ったら水死者を釣り上げてしまったことがあり、「二度と行かない」そうだ。土左衛門を釣り上げてから、数年間は凶事が続いた、とのこと。これも実話だが、それを聞いて、初めて「鈴生りの顔」の意味が分かった。
画像は、この一年内に私を頼って来た女の幽霊たち。「助けて欲しい」そうだ。
ちなみに、こういう時の最も適切な対処法は「慰める」だ。
「あなたは亡くなられたが、思いを残しているからこうやって私の前に現れるのでしょう。私にはあなたを救うことは出来ないけれど、あなたのために心を込めてご供養をします。どうか安らかに」
そこに人格が存在していると認識し、人にするのと同じように接すればよい。
ある場所に立った時に、何故か分からぬか不快な気持ちになることがあるが、これは歓迎されていないためだ。そういう時には、「私は通りすがりの者でここに入ったことに他意はありません。すぐに出ますので通行をお許しください」と声に出して言うこと。丁寧に頼むと、多くの場合、許してくれるが、人間でも同じだ。敵意や悪意をぶつけられたり、自分のことを怖ろしいものとして見なされたりすれば、誰でもいっそう腹を立てる。
いきなり真言や祝詞を唱え、打ち祓おうとすると、相手が余計に怒ることがあるから、まずは丁寧に頼むことだ。殆どの場合、それで去って行く。
霊能者や霊感占い師の末路は、それが本物であれば、「病気で全身が腐る」か「他者に殺される」というふた通りしかないのだが、これは常日頃より念の力で霊を退けたり、霊を利用したりすることを繰り返したことによる。