日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎幽霊は自ら悟らぬ限りそのまま

幽霊は自ら悟らぬ限りそのまま
 ひとが死んで肉体が滅びると、魂だけの存在となる。自我(心)には自我のルールがあり、何らかの感情が求心力になり、一定の意識を保つ者もいる。
 多くは自然に解体され、意識(感情)の記憶は断片的なものになるのだが、恨みや哀しみなどの負の感情があるとそれが求心力になりやすい。よって、原則として、幽霊はマイナスの心を持つ者が大半だ。簡単に言えば、幽霊に善霊は少ない。
 逆に言えば、その求心力(負の心)がある限り、消滅することはないと言える。
 既に脳を失い、論理的思考が出来ず、言わば感情だけの存在だから、負の感情を解くのはなかなか難しい。頭で理解するのは難しいことではないが、心で納得するかどうかはまた別の問題だ。

 つい一昨日、「シンカの女」という短編小説を書いた。
 その中に、山奥の館に棲む女が登場するが、これは愛人と共に焼け死んだ女が変じた悪霊だ。この悪霊は、主人公(僕)を手玉に取り、幽界(あの世)に誘う。
 この時にこの女の外見的イメージを構築したが、「中肉中背で髪の長い色白の女」と想定した。僕を誘惑するので、割とエッチな場面もある。
 頭の中でイメージすると同時に、「かつて見たことのある女」を思い浮かべていたが、執筆中にはそれが誰だったか分からなかった。
 翌日、昼に仮眠を取ったが、酷い淫夢を観た。
 欲望のままに延々と性行為をする夢なのだが、ただの夢ではなかった。「ただのエッチな夢ではない」と言える根拠は、夢の中の私が男ではなく女の側だったからだ。
 ちなみに、私にはそういう性癖は無い。
 この時、「女」のイメージが過去のどこにあったかが分かった。

 令和元年の十一月に、神社の前でセルフチェックをしたが、この時には私一人だったのに、周囲には沢山の人影が写っている。
 これが現実の人間でないのは、数体が私の体に触れており、かつその後ろにムカデ行列のように連なっていたことによる。
 見知らぬ者が体に捕まっている、そんな状況だ。
 この時に、私の左側に、私の左腕に掴まっている女がいる。
 顔と細い腕が見える。少し小さいが、幽霊のサイズはあまり関係ない。大きくなったり小さくなったりする。
 紙が長く、中肉中背だが外見はほっそりしている。実際にはこの女は裸だ。私の背中の右の肩甲骨の辺りに、乳房が当たる感触があるからそれで分かる。
 「シンカの女」をイメージする時に、無意識に思い浮かべたのがこの女だ。で、その夢を観た。
 夢の中の私は女の側だったが、これは私の夢ではなく、その女の夢だったのではなかろうか。

 怪談や怪異譚の多くでは、悪霊が祈祷によって退治され、消滅するが、前掲の通り、既に死んでいる者を殺すことは出来ない。
 自ら自我を解体することえ選ばぬ限り、悪霊は悪霊のまま存在し続ける。目の前から去るのは消滅したのではなく、遠ざかっただけ。「他力による祈祷では、悪霊の多くは後で戻って来る」と言うのは、こういう理由だ。

 事実を確認するために、五年前の画像を点検したが、その当時には気付かなかったことが分かった。
 私は私の周囲の幽霊にばかり気を取られていたが、ガラスには、左手に大きな女がいるようだ。
 顔の一部が覗くだけだが、この女には見慣れている。
 主にこの年に繰り返し、姿を見せた「白い着物(または巫女着)の女」だと思う。
 O町の旅館や、産直施設のガラス窓でこの女を見たが、悪縁ではなく仲間の側のようだ。たぶん、私が危険な状況なので、注視してくれている。

 一方、右手には、神殿の中に着物姿の人影がある。
 当時は神職(神主)だと思っていたのだが、装束が神職のそれではなく、浴衣のような普通の着物だ。
 さらには、体を通り越して、その先のものが見えている。

 まだはっきりしないが、もしかすると、この時のメンバー(幽霊だが)が、いまだに私の周りで着かず離れずにいるのかもしれぬ。
 少なくとも、左手の「大きな女」は今尾傍にいると思う。
 この女性の霊について記している時に、卓上の電話が「プリン」と鳴った。この受話器の電源は繋がったままだが、回線を閉止したので、電話が掛かることはない。

 淫夢自体は「生きることへの意欲」に繋がるから、これを拒まぬが、感覚が女性の側だというのは勘弁してほしい。
 ま、存在を意識し、きちんと警告すれば、寄り憑かずに離れていると思う。対応の仕方は「普通の人に接するのと同じように説得する」だけでよい。怖れたり騒いだりすると、その感情の起伏が誘因になり余計に寄って来る。

 心(感情)は波のような特徴を持つ。感情が波立つと、自我に隙間が生じやすいから、その間隙を突いて悪霊が入り込む。あの世対策の基本的なことのひとつは、「無用に怖れぬこと」だ。