日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎謎が解ける

◎謎が解ける
 記述は「出来事が起きた順に時間の流れに沿って書く」のが基本で、これを単文で追うと表現がちょうど星新一さんの書く文体になる。要は分かりやすい。

 十月六日の経過を改めて記す。
 足の具合が改善に向かう兆しがあったので、トラの神社にお礼をしに行った。七八年前に危機に瀕していた私を救ってくれたのは、使者のトラと、それを贈ってくれた白衣の巫女だが、彼らはこの神社の縁者だ。
 神殿前で自身を撮影したが、その場では何事も異変が見当たらなかったので、ほっとし帰路につくことにした。

 駐車場に行くと、私の車の後部座席に「黒い人影」が座っている。こういうのは時々あるが、今回は人影だけなので、気のせいかもしれんが、こういう時には「そこにいる」と見なし対処することにしている。ドアノブに手を掛ける時には人影は消えていたが、ドアを開け、「ここで降りること」と声に出して言った。
 ちなみに、はっきりと人の姿をして乗っていることもある。そして、数秒経っても消えてくれぬ時もあるが、「半分は妄想かもしれんのだから慌てるな」と自分に言い聞かせると落ち着いて対処出来る。(最初の時は高速道路の中だったと思うが、気が動転して危なかった。)

 帰路の半分を過ぎたところで交差点で停止したが、道路の反対側が何となく気色悪い。
 誰かが見ているような気がする。
 そこで、その場所を撮影して帰宅した。
 交差点での画像を開くと、日光の反射光に混じり、光の帯や煙のようなものが写っている。
 「なるほど。日頃、直感とか霊感とかいう性質の感覚は、こういう風に目には見えぬ、もしくは見え難い光や煙を見ているわけだ」と納得した。

 ちなみに、その場では分からなかったが、建物の右脇の奥の方に、仏さまが置かれていた。慰霊なのか鎮守なのかは分からない。前々から何かあったということ。

 そこで、神社の画像を点検すると、景色が歪んでいた。
 遠近法がデタラメで、ガラスごとに映っている景色の位置が違う。
 光が歪められてるケースでは、「歪めている者がいるから」で、詳細に検分すると、実際そこにいた。
 客観的に、私の見るものが見える人は1%以内と思うが、これは同じ場所で五千枚以上撮影しているので、どの場所でどう写るかを知っているから、ということ。
 また見えるだけでなく、現実に周囲で符合するような変事が起きるからということで、解釈の範囲だ。なお、今回は「声」や「触感」はない。

 画像の左側の歪みが著しいが、これはごく近くに何かがいるケースだ。私の体が切れているが、庇の下で光の当たらぬ場所にいたから、これも不自然。
 ここからは独自解釈(直感)になるが、頭の後ろと喉元に女がいると思う。
 頭の後ろのは、おそらく所沢に行き、眼の治療から帰る時に「異様に足が重くなった」時に連れ帰った。
 別の日に同じ所沢で、金券ショップに立ち寄ったが、ブランドバッグに何か執着心のようなものがついていて、その執念を持ち帰ったと思う。
 喉元の女は、数週前の廃病院の患者だ。自分が味わったのと同じ苦痛を与え、共感を求めている。
 目視でそれと分かりやすいのは、左手を境にして、顔の左右でマスクが「縦にずれている」ことだ。
 相手を認識できれば、特定の対処が可能になるので、とりあえず今回は足を切られずに済むと思う。

 廃病院で、人のいない事務棟の前に立った時に「誰かが見ている」と思い、その場所を撮影したが、その夜から足が腐り始めた。原因が思い当たらず、治療の効果もまったくなし。
 事務棟の「そこにはいない筈の女」を突き止められたので、今回も何とかなった。
 病気は基本的に医療で治すべきだが、医療では治せぬ場合は、「他に原因がある」と見なし、それを取り除くことで病状が改善されることがある。

 例年、神無月には、やたら幽霊の姿が写り込んだものだが、今年は少し様相が違うようだ。だが、やはり異変は起きている。
 私はこういうのがやたら多い。
 腹が立つのでまじないをかけることにした。
 「どうか俺の十分の一でも、これを他の者にも味わわせてやってくれ」
 医療では太刀打ち出来ぬぞよ。

 もちろん、最後のは私的には本気でも、世間的にはただの妄想だ。