日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎ようやく血が通って来る

ようやく血が通って来る
 眼の治療で所沢に行った時には、帰路、「片方五キロの鉄下駄を履いたよう」な気がした。足が重くて歩けない。
 それと前後するかもしれぬが、廃病院の前を通った時に、こちらをじっと見る視線を感じた。すぐに撮影したが、その時の画像によれば、事務棟の二階から女の患者(の幽霊)が見下ろしていた。
 この時に、初めて寄り憑かれたわけではないようで、前年に八幡神社の前で撮影した画像には、幾度か下半身にしがみ付く複数の腕が写っていた。
 なお、こういうのは、より鮮明な手の画像などの撮影を経験していないと、よく分からない。重ねて赤外線撮影をするなどして、幾つかを照合した時に、「どれがどういう状況でこう映る(写る)か」が分かるようになって、初めて認識出来る性質のものだ。
 要は「経験で眺めている」ということ。見たことも学んだことも無ければ、もちろん、認識出来ないと思う。ただの光と影だ。
 あの世は人の可視域の「境界線に跨って存在している」ので、基本的に「見えない」のだ。見えない者を探るには、それなりの経験と努力がいる。
 
 寄り憑く者がひとつ二つなら簡単なお祓いで対処出来る。
 さしたる悪意を持たず害のない者は割と正直に自分の姿を晒すのだが、こういった無防備な者は単純に「自分を今の状態から救って欲しい」と願って寄り憑いて来る。溺れている者と同じで、とにかく助かりたくて、周囲にいる者にしがみつく。
 その程度なら、「自分には助けられぬから離れてくれ」と告げて、お清めの塩でも振ればよい。
 面倒になるのは、寄り憑く者が複数になると、その中には悪意を持つ者が混じるようになることだ。
 心(精神状態)に共鳴するのが寄り憑くきっかけになるわけだが、これらを取り込んでしまうと、相手はこちらを支配しようとするようになる。「共鳴」が「同化」に向かうのだが、そのために苦痛や困難を与え、心の中核を操るように持って行く。

 この段階に来ると、分離し遠ざけるのは容易ではなくなる。
 ちょっとお祓いをしたくらいでは出て行かない。
 また、一旦離れたように見えても、ほとぼりが冷めるとまた戻って来る。
 他力(祈祷師など)による除霊浄霊もほとんど効力はない。
 結局は当事者が立ち向かうしかないわけだが、それにはまず相手のことをよりよく認識して、どういう感情が利用されているかを見極めることが必要だ。
 「これは自分の考え方・感じ方ではない」と認識できれば、その考えや感情を排除できる。
 お祓いなど形式的な手立ても役には立つが、基本は「自分自身をよく知る・見極める」ことだと思う。

 と書いた瞬間に、PC脇の電話が鳴った。
 いつも記すが、この電話は回線が繋がっていない。手の届かぬ位置に電源コードがあるので、電源は繋がったままだ。
 通信は出来ぬ筈だが、時々、「チリ」「プルル」とベルを鳴らす。競馬の当たり番号を教えてくれたりもするから、偶然や単なる電機エラーではないと思う。
 何か真実の一端を突いているから反応している。

 既に幾度も書いたが、廃病院で女患者を見た。その日の夜に両足先が紫色に変色し、腐り始めた。
 まともに歩けぬほどだったが、治療を始めてもほとんど効果がない。

 もちろん、病気や怪我の治癒は「まずは医療による治療を最優先する」のが基本だ。
 これで治らぬ時には、初めてそれ以外の要因を考え、もし問題があれば、それを除去する手立てを打つ。そういう流れになる。

 今回の分岐点は、「セージを焚いて、より一層内省する」ところだったと思う。
 幽霊たちは、セージの焦げた匂いが嫌いらしい。
 毎日、女の声を聞くが、今は階段から上には上がって来ない。
 もちろん、それ(セージ)は環境を整える手立てのひとつに過ぎず、主役であり最大の武器は「本人の心を整える」と言うことだと思う。

 自分の信仰する神仏に祈願するのもよろしい。
 世界には様々な神がいて多種多様の信仰があるが、「あの世は主観的に構成される世界」なので、自らの他に別の信仰が存在することはあの世の世界観と矛盾しない。
 信じる者にとっては、死後の世界はその者が信じる通りの姿で現れる。心の持ちようによって、見える世界が異なるし、その本人の姿も変わる。醜い心根を持つ者はバケモノのような姿になる。

 とりあえず足から手が離れ、血が通って来た。
 腐り始めた時には、一夜で足の前半分が紫色になった。
 今は足先までぬくもりを感じる。

 

 ちなみに、私のところまで来てしまうと、働きかけが露骨ではっきりしている。

 以前は「遠くの方で『助けて』みたいな声がかすかに聞こえる」程度だったが、昨日のケースでは「※※※※※してください」と、階段下から声を掛けられた。それくらいの距離感覚だということだ。

 かつては、「深夜に玄関のドアを叩く音が響く」状態が十五年以上続いたが、何時しか家の中で人影を見るようになり、声が響くようになった。

 既に「出入り自由」の状態になっているということだ。

 これは前回記した「亡者の群れ(百鬼夜行)」との関りとも無縁ではないと思う。

 

追記1先輩患者のNさんは、私とほぼ同時期に同じ症状になった。腎不全患者の宿命で、いずれ多くの者が足を切ることになる。Nさんは循環器専門病院に入院して、足に酸素を送る集中治療を二週間以上受けた。幸い切られずに済んだようだが、私の方は自然治癒に向かっている。

 症状や経過が殆ど同じでも、幾らか展開が変わるのは、あの世対策を講じるかしないかの差だと思う。

 条件は同じで、いずれ同じ運命を辿るが、手を打つことで少し遅らせることが出来る。

いつも記す通り、「死後の存在を見てそれとの関りを見直すことで、死期を遅らせることが出来る」のだ。

 私と同じくらいの年齢の人なら、私の現状を見て、「俺はコイツよりは長生きする」と思う筈だ。

 実際、私の余命は半年一年だと思う。

 だが、その状態のまま三年四年と「期限延長」になって来た。

 私自身は「他の人より先に死ぬ」かどうかなどどうでもよいが、「必ずしもそうなるわけでもない」とも思う。

 「死」がどの辺にあるかを知っているし、その先も見据えている。これが強みだ。