日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

視力がゼロに

 もう何年もの間、体調がまともだったことがありません。
 集中して作業をしようにも、日に数時間も座っていられない状態です。
 「やりたいが、しかし思うように出来ない」状態は、心の平穏を壊すらしく、極めて怒りっぽくなり、ふとしたきっかけで当り散らしてしまいます。
 
 かつて、缶を棒で叩き、「出て行け」と叫んだ、あの「出て行けオバサン」は、身辺にあまりにも不幸が重なったための「やるせなさ」から、あの状況に陥ったそうです。
 そういう気持ちは、今の私にはよくわかります。
 ひたすら、「前に」「前に」と進んできたような人生でしたが、今は狭くて暗い洞窟の中にいるようです。
 逃れ出たいが、回りには手を伸ばす空間もなく、ただ真っ暗なだけです。
 
 そんな絶望から行き着いたところは、出来ないことを嘆くのではなく、その境遇なりに出来ることで前に進んで行くことです。
 「環境が整うまで待っていては、何事をも成し遂げることが出来ない。その時出来ることで前に進め」は、聖書の教えであり、般若心経にも通じる考え方です。
 今の私には、これから「環境が整う」ことは、もはやないだろうと思います。
 
 これまでの持病に加え、昨年からは右眼の眼疾で、文字を読むのもひと苦労。1頁読むのに、両眼の3倍の時間がかかるばかりか、それほど長くは持ちません。キーを打とうとしても、誤変換すら認識しにくい(見えない)状態です。
 先週には、ふたたび大出血し、ついに右眼の視力が完全にゼロになりました。
 またもや、生きる姿勢を試されます。
 
 色々、やりたいこと、やるべきことはあるけれど、やれることで前進するしかありません。
 このため、書籍のとりまとめについても、基本的に新聞連載時のままで構成するしか手が無くなってきました。
 書き直したいことがいくつかあり、丁寧に言葉を直して行きたいのですが、そうでなくとも曲折を経てきましたので、これ以上、遠回りすると、かたちを残すことなく終わってしまうかもしれません。
 
 昔付き合っていた年上の女性は、様々な過去を持つひとでした。
 そのひとが言っていたことで、次の言葉が今も記憶に残っています。
 「生きていると色んなことが起きる。予期せぬ災難や急病に襲われることもある。とかく思うとおりにならないことばかり。その、うまく行かない境遇を、ひと度辛いと思えば、夜が明けるまで生きていたくないほど辛く感じる。でも、こんなことは誰の身にも起こるごく普通のことだと思えば、ひとは案外、困難を乗り切ることが出来るもの」
 
 無いものを考えても何も変わらない。
 「コップの水」の哲学ですね。
 あまり多く残ってはいませんが、残っているものを、じっくりと味わうように心掛けます。
 右眼が使えなくとも、まだ左眼があるさ。
 歩みを止めなければ、いつかは目的の地が見えてくる(?)ことでしょう。
 
 さまざまな誤表記、誤変換が生じると思いますが、こういう事態にて。