◎2日連続の菊花展(355)
買い物に出たついでに、2日続けて菊の花見物をしました。
この日がちょうど盛りのようでした。
神殿で手を合わせたのですが、構えるところが無かったせいか、今日はさまざま出ていました。
拡大すると、「かたち」に目が行ってしまうのですが、「自分からどう見えるか」はどうでもよいことです。「相手が何を見ているのか」が重要で、こういう画像は、遠景のほうが相手の視線を、より正確にキャッチ出来ます。
どうやら、心構えがまったく無いままに死ぬと、すんなり自我を解き放つことが出来ずに、そのまま留まってしまうようです。
そういうのはいったいどうすればよいのだろう?
もはや、思考能力が無く、心に任せて「存在しているだけ」になっています。
どういう信仰でも構わないのですが、「死ねば終わり」では到底ないことと、欲望や愛情などこの世のしがらみを脱するための心の準備が必要のよう。
神を含め、死後の世界観は正確でなくとも構わず、実際、多くの宗教の語ることはデタラメなのですが、心を安定させる機能を果たしています。
どういう杖であっても、前が見えない状態では、なにがしかの役に立ちます。
窓が開くと、そこから色んなものを垣間見ることが出来ます。
見る度に違ったものが見えるので、要するに「見ている」のではなく感じ取っているのだということが分かります。
神社猫のトラには、鯛をご馳走しました。
追記)白いブラウス、水色の上着の「女性」は、朝の「まぼろし」の女性ですね。すると、あながち、完全な「脳のなせるもの」でもなかったのかもしれません。それはそれで憂鬱です。