◎「通行霊」が脇を過ぎる(500)
郵便局に所用があり、車で出発したが、局の駐車場が満杯だった。
「こりゃ行列に並ばねばならないな」
しばし考えさせられる。
結局、地元の中央局をスルーして飯能のN郵便局まで行くことにした。
一時間並んで待つよりも、同じ時間を移動して「待ち時間ゼロ」の窓口に並んだ方が得策だからだ。あそこなら「NO密」なわけだし。
実際のところ、いつも通り「ゼロ秒」で受け付けて貰い、あっという間に用事が終わった。
外出せざるを得ない時には、人のいそうなところを避ける手だ。
帰路にも少し考えたが、やはりいつもの神社に寄ることにした。
平日の午前中だし、参拝客が少ない。
駐車場に車を入れ、参道を歩く。参拝客は数人ずつで、すれ違うこともない。
手早く手を合わせ、数枚ほど写真を撮影して帰った。
この時期は、割と気楽に自分の姿を確かめることが出来る。さしたることが起きないと分かっているためだ。
私とは関わりのない人影がその場で写ることがあっても、肩に手を回されたりすることはない。
都会の雑踏では、数え切れぬ人が脇を通り過ぎるが、自分とは関わりの無い人たちだから、気にする必要はない。挨拶をすることだってないのだ。
画像を開いてみると、やはり「完全にゼロ」ではないようだ。
最近はすっかり慣れたので、写真を撮る時に、周囲にいる人数やその人たちの特徴を確かめる。たぶん、刑事や探偵並みの注意力ではないか。
この時には、直前に老夫婦がいたので、その人たちが去るまで数分待った。
背後には、かなり離れたところに男性が一人いるだけだ。
私が参拝する間は、視野に入ることは無い。
画像には、不鮮明ながら、女性の姿が一人ずつ写っていた。
階段を上って来る女性は、黒づくめの服を着ている。おそらく礼服だろうが膝丈のスカートを穿いている。
髪は胸元までで、顔の表情は見えないが、それで良かったと思う。たぶん、あまり良い表情ではない。
二枚目には、背後にマスク姿の女性の上半身が写っている。
これも注意深く見ないと分からぬが、私は何百回もここで撮影しているので、樹木や建物の影がどのように出来るかを承知している。
こういう影は偶然には出来ないものだ。
いずれも景色に溶け込んでおり、仮に鮮明であっても、誰も不審には思わない。
ごくありがちな情景になっているのだが、しかし、その人影は現実には存在していない。
しかし、かといって驚くことでもない。
そういう「人影」は自己都合で現れ、自身の関心のままに行動している。
おそらくここに来たことがあり、その記憶を持っているから、こうやって生前と同じに参拝するのだろう。
生きている者に影響することは無く、ただ通り過ぎていく存在だ。
都会の「通行人」と同じで、「通行霊」のことはまったく気にする必要はない。
幽霊は「怒哀」を抱えていることが多いのだが(「喜楽」はない)、それがほとんど感じられぬ者もいる。
これは「ひとは死ぬと、誰もが幽霊になる」ステップを経由するということではないかと思う。
肉体が滅びても、自我・自意識はすぐには消滅しない。
ひとによって長さは異なるのだろうが、死後、「凝り固まった自意識」が消散し、感情や記憶が散り散りになるまで、幽霊は心の赴くままに流離うのだろう。
この日をもって、この神社への参拝回数が五百日に達した。
一年に百日くらいの年が多いので、これで五年が経過したということだ。
自らの死を悟り、「死ぬまでに百日詣を」と考え、始めた参拝だったが、神社猫のトラの助けもあり、ここまで来ることが出来た。
そのトラも今はいない。
割と重い持病がある上に、時々、新しい疾患が加わる。この状態は今後も続くわけだが、精神状態は悪くない。
この後、どんなことが起きようとも、それも「生きていることを楽しみ味わう」という意味になる。
もはや「おつり」の人生で、今の一日一日は総て「儲け」のうちということだ(快笑)。