◎一年前の振り返り 「画像が開かない」
過去一年を振り返り、何が起きていたのかを確かめている。
これは、令和元年六月十八日に御堂観音で撮影したものだ。
ここは、「今」に繋がる分岐点のひとつ。説明の出来ない煙や、光玉、煙玉、人影がほぼ毎回現れる。
昨年は起きていることの状況が分からなかったので、記録するに留めて置いたものだ。
鳥居を潜り、階段を上って参拝したが、この日はさしたる異変を感じない。
「声」や「光」、そして「ざわざわ感」も無し。
途中で画像を開いてみたが、交流点も開いていなかった。
それから奥の「ゆはずの泉」で水を汲み、元来た道を戻った。
階段の途中で、前回、「蛇のような煙」が出た箇所で撮影した。
車に戻って、ひと通り点検したが、幾つかの画像が開けられない。
家に帰り確かめてみた。
開けられぬのは、やはり、「蛇煙」の場所だった。
特別なものではなく、普通のデジカメで撮影しており、JPG形式の画像だ。
画像そのものはきちんと存在しており、プレビューの小窓には出ている。
途中まで開くのだが、半分まで行かぬうちに停止してしまう。
何が写っているのかを確かめるために、ディスプレイ画面を撮影し、拡大してみた。
特に目につくものはなし。
ただし、さしたる理由がないのに「怒り」を覚える。
一つひとつは小さなことだが、メラメラと腹立ちを覚えるのだ。
ここで気が付く。
「こういうのは一番ダメなヤツだな」
視覚や聴覚でそれと分かったり、想像や妄想でイメージを思い描くことより、数段悪いパターンだ。
「かたち」を認識できないヤツは、かなり性質が悪い。
一年前には、「これを見る人に影響があったりするかもしれん」と考え、そのまま仕舞って置いたのだ。
しかし、あれから一年が過ぎているし、時と共に影響力は薄れるものだから、今回は整理することにした。
それに、今は「腸が煮えかえるくらいの怒りを覚えている」ので、誰がどう思おうが「知ったことか」と感じる。いかにも不味い兆候だ。
「画像が開かない」くらいはまだ笑って流せるが、以前は「ドアが開かなくなる」ことが時々あった。「鍵が引っ掛かっている」ような感触ではなく、ドア自体が「壁に貼り付いている」感覚だ。
これが同日中に行く先々で起きたりすると、さすがに「何かある」と思わざるを得ない。
相手が分かり、意図を推し量れるのであれば、対処は可能だが、姿が見えず、声も聞こえず、どういう目的なのかが分からぬのであれば、如何ともし難い。
ま、たまたま「マシントラブルが起きた」と見なす方が気が楽だ。
しかし、この地ではそうも言えぬ実績がある。
たぶん、ここは私の波長とドンピシャに合う。実際、数度通って泉の水を飲んだだけで、長く悩まされた胆嚢と脾臓の腫瘍が完治してしまった。
最初の方で会ったあの「女」は、怖ろしい表情をしていたが、悪さをする者ではなかったらしい。幽界の住人が怖ろしげに見えるのは、致し方ないことだ。
ライオンの顔が怖いのは性悪だからではなく、そういう風に生まれついているからだ。