日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎クリント・イーストウッドになった気分(514)

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令和二年七月十日撮影

クリント・イーストウッドになった気分(514)

 私は「ひとの心」を探ることを人生のテーマとしている。それなのに、生来、鈍感なたちなのか、まるでこころが見通せない。

 先日、一年ぶりに開いた画像を見ると、「女たち」が私を見て手招きをしているように見えた。

 「どういう意味か」とあれこれ考えさせられたが、ようやく気が付いた。

 「これって、『わたしを助け出して』という意味だよな」

 こんな当たり前のことに、四日も五日も掛かるとは。

 さすがにこれじゃあ、女性にもてなかったわけだ。

 「この画像で何かを見取れるのは、たぶん俺だけだ。それなら、俺の務めということ」

 こんな単純なことに何故気付かないのか。

 ご供養に行き、引き揚げてあげれば良いだけの話だ。

 

 地名を書かないのは、余計な影響を避けるため。記録を残すのは、私自身と私と同じ悩みを持つ者のために行っているもので、一般の好奇心をくすぐるためではない。

 ま、画像に時々現れる「悪縁」の数々を見れば、あえてイジろうとする者は無いだろうが、極力、地元に迷惑を掛けぬようにという配慮のつもりだ。

 

 さて、昼頃に出発をして、画像の湖に向かった。

 十キロくらい手前の交差点を曲がると、あとは一本道になる。

 すると、何故かポロポロと涙がこぼれ始めた。涙を流す理由はないのだが、自然に流れているのだ。

 「こりゃ数年前の三陸の時と同じだ」

 あの時も、運転中に、突然、涙が出始め、号泣に近い状態になった。

 「要するに、泣いているのは俺ではないってことだ」

 同時に強い腹痛が始まる。鳩尾から下っ腹にかけてのお腹全体の強い痛みだ。

 「なるほど。癌で亡くなったか」

 膵臓からなら、かなり苦しんだ。

 

 湖に着いた頃には腹痛は消えている。これもいつものことだ。

 早速、お焼香を始めようとしたが、周囲には割と見物人がいた。そこでなるべく人の目に付かないように車の中から香炉を出してご供養することにした。

 「長く待たせてすまなかったな。でも、もう大丈夫だから」

 うわあ、苦しんでいる村人の前にさらっと現れるガンマンのよう。

 「まるでクリント・イーストウッドみたいだな」(笑)

 この世では、風采の上がらぬオヤジジイだが、あの世ではかなりハンサムだろうな。

 もちろん、ただの願望だ。

 

 帰路には神社に参拝した。初めてトラに導かれてから、これで514日目だ。

 神殿の前に立ち、「ここでこれまで抱えて来た重荷を下ろせ」と伝える。

 ま、少しずつ慣れて行けば、じきに解放される。

 

 この日の画像に解説は入れられない。基本的に「対話」であり、私と相手との問題ということ。他の者には関わりのない話だ。

 それに、この日の「左眼」が見える人は、ほんのひと握りだろうと思う。

 最近になり気が付いたが、「眼(視線)」はガラスに映っているのではなく、ガラスの前にあるようだ。いつも左右どちらの眼なのかを考えさせられるが、「実際にそこに立っているときと同じ」と判断すればよい。(これに対しガラス映像では左右が逆転する。)

 

 徐々に「対話」が成り立つようになって行くと思う。

 ま、鈍感なのはこの先も治らない。