日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎『約束の場所』 

 悪霊のア(ウ)モンがどれくらい前に夢に現れるようになったかを遡及して調べている。2012年頃には文字に落としているから、その数年前から夢に観るようになっていたようだ。

 実際に姿を見せるようになって来たということは、「私の召還が近い」ということか。

 なお、「アモン」は「闇に生きる者」という意味らしい。既存の宗教に出て来る悪魔とは関係なし。

 

◎『約束の場所』     (『夢幻行─悪夢のかけら─』所収)

 ハッと目が覚めると、俺は道路の上に寝転んでいた。

 頭のすぐ上にはガードレールがある。

 俺が寝ていたのは二車線道路の片隅だが、路側帯には割と余裕が有った。

 顔を足の方に向けると、すぐ五メートル先に、大破したバイクが転がっている。

 「おお。一体何があったんだ?」

 まあ、何か事故があったことは疑いない。

  もちろん、俺自身も関わっていることは確かだ。

 

 今はどうやら夕暮れ時のようで、周りは薄暗い。

 とりあえず俺は寝転がったまま、自分の体を点検した。

 俺は革ジャンを着て、下にはジーンズに革の長靴を穿いていた。明らかにライダーのする身支度だ。

 「ああ。やはり俺はあのバイクに乗っていたのだな。それで何らかの理由で事故に遭ったという状況だろ」

 しかし、転んだ時に脳震盪を起こしたのか、俺には直前の記憶がまったくない。

 しかも、自分が誰で、どこに住んでいて、今何をしようとしていたかということまで、まったく分からないのだ。

 「記憶喪失ってやつか。テレビや映画ではよく見る設定だけど、実際に起きることもあるんだな」

 ここで俺は「よっこいしょ」と声を出して体を起こした。

 立ち上がってみると、俺の体には何一つ怪我をしたような痕が見当たらなかった。

 (バイクがあれだけ破損しているのなら、道路やガードレールに叩きつけられたはずなのにな。何ともない筈は無いが。)

 俺は我知らず頭の中の考えを口に出していた。

 「一体どういうことだろ。バイクでは滑るように転がると、まったく怪我をしないことがあるけれど、それにしても擦り傷一つ無いとは。その一方で、頭を強く打ったのか、まったく記憶が無い。この状態で体が何ともないというのは、如何にも解せない話だぞ」

 周りを見渡すと、どの方角にも山々が連なっていた。

 記憶を失くしており、今の季節がいつ頃 なのかも分からないが、空気はかなり冷たかった。ただし雪は見当たらないので、秋の終わりか春の初めのどちらかだろう。

 

 「ひとまず誰かに連絡しないとな」

 携帯電話を探すと、ガラケーが胸ポケットに入っていた。電源は入るようだが、どこに掛けても繋がらない。

 「そっか。おそらくここは山の中の観光道路だろ。ここから電波は届かないわけだな」

 こりゃ参ったぞ。

 人家はおろか、街灯すら見当たらないところだから、バイク屋どころか警察だって呼べそうにない。

 「ここから里までどれくらいの距離があるんだろ」

 まったく思い出せない。

 

 すると、唐突に俺の後ろの方から声が響いた。

 「町まで八キロはあるよ」

 振り向くと、反対側のガードレールの外側に子どもが立っていた。

 その子の姿を見て、俺は少しだけほっとした。人が居るなら、何かしら手立てが見つかるだろうからだ。

 「君は誰?どこの子なの?」

 男の子は俺の問いに答えず、ガードレールの下を潜って俺に近づいた。

 顔つきからして、たぶん十歳くらいの男の子だ。

 近寄って来るところを見ると、今どきにしては小柄な子だった。

 

 「お兄ちゃんはこの先二キロくらいのところで、ボクに会う約束だったのに、なかなか来ない。だからボクの方がここまで迎えにきたんだよ」

 「え?俺は何か君と約束でもしていたのか?」

 「ウン。ボクと一緒に出掛ける筈だったんだ」

 そうか。俺はその約束の場所に向かう途中でこの事故に遭ったのか。

 「スマンな。どうやら転倒した拍子に記憶をすっかり失くしたみたいなんだよ。何ひとつ思い出せない。正直、君のことも一体誰だったか、俺には分からないんだ」

男の子が頷く。

 「ふうん。それじゃあ仕方ないね。じゃあ、あの場所までボクと一緒に歩こうよ。そこまで行けば電話だって繋がる」

 なら異存は無いぞ。

 俺はその子と一緒に歩いて、その場に向かうことに決めた。

 「そこはここからどのくらい先なんだっけか?」

 「大体二キロくらい先。ゆっくり歩いてもせいぜい三、四十分ってとこ。お兄ちゃんが普通に歩けるならね」

 男の子が俺の足に視線を向けた。

 「大丈夫だよ。不思議なことだが、こんなにバイクが壊れているのに、俺はどこにも怪我をして無いんだ」

 「ふうん。ま、時にはそんなこともあるだろうね」

 俺は口の端をほんの少しだけ歪めた。

 (こまっしゃくれたガキだ。大人のような物言いをしやがる。)

 

 俺たち二人は事故の現場を後にして、道の先に進んだ。

 山裾を切り拓いたこの道路は、左側が斜面で、右側は崖だ。崖の下には湖があるらしく木々の間から水面が微かに見えている。

 暗くなって来たので、灯りになる物を探すと、ポケットにライターが入っていた。

 ライターの下半分に小型の電燈が付いていたので、それにスイッチを入れた。

 すぐに夜になるだろうが、これで何とか道路の白線くらいは見える。

 

 その男の子が俺に顔を向けず、前を向いたまま話し出した。

 「あそこでひっくり返るのは、全然予想していなかった事態だよね。一体どうしたの?」

 「それが、ぶつかる直前に何があったかを、俺はまったく思い出せないんだよ」

 ここでその子が俺の方に顔を向けた。

 「右の耳の後ろに手を当ててごらんよ。きっとそれで思い出す」

 俺はその子に言われたとおり、右耳の後ろをまさぐった。

 「イテテテ」

 まったく怪我はしていないと思ったが、実際にはここに瘤が出来ていた。

 「何だよ。痛いじゃないか」

 男の子が顔を向ける。

 「はは。でもこれで思い出したと思うよ」

 

 その子の言うことは本当だった。

 その痛みのおかげで、俺はガードレールにぶつかる直前のことを思い出したのだ。

 あの時。俺がカーブを曲がろうとすると、道の真ん中に野兎の子どもがいた。

 バイクが突然目の前に現れたので、その兎は身をすくめてうずくまった。

 俺は咄嗟にその兎を避けようとしたが、スピードが出過ぎていたので進路を変えられず、そのままガードレールに激突したのだった。

 「ってな感じだったな」

 この俺の説明に、男の子が首をかしげた。

 「お兄ちゃんは、本来そんな性格が良い人じゃなかったのに、一体どうしちゃったの?野兎を助けようなんて、よくも思ったものだね」

 人を小馬鹿にしたような言い様だ。

 「おい。失礼なヤツだな。お前は俺のことをどこまで知っていると言うんだよ」

 男の子が笑う。

 「ははは。ボクはお兄ちゃんのことを、お兄ちゃんが小さい頃から知ってるよ」

 「生意気なヤツだな。俺よりもはるかに齢(とし)が下だろうから、俺の子どもの頃のことを知ってるわけが無いだろ。お前が生まれる前の話だろうが」

 しかしこの時、俺は正直、ドキッとしていた。

 つい今しがたの記憶は失われているが、昔のことは思い出せるのだ。

 この子の言う通り、野兎の命を助けるなんて、それこそ俺には似つかわしくない振る舞いだ。

 (何せ俺は物心ついてからずっと不良で、他のヤツを痛めつけたり、女を弄んだりと、くだらぬことばかりして来たからな。)

 人のためになることなんか、これまで一度もやろうと思ったことが無い。

 相手が人ですらそうなのだから、動物の命を助けようなんて、塵ほども考えたことが無いのだ。

 ここで男の子が俺の方に向き直った。

 「でしょ?」

 (本当に嫌なガキだ。まるで俺の心の中が読めるようだぞ。)

 

 男の子が横目で俺を見上げた。

 「ところでお兄ちゃん。お兄ちゃんは昔、蟻に悪戯したことがあったでしょ。あの時どんなことを考えてたの?」

 「蟻に悪戯だって?」

 「そう。蟻塚に水を流し込んで、蟻たちを殺したでしょ」 

 ああ、そのことなら憶えている。

 俺が小学一年くらいの時だ。俺はバケツに水を汲み、それを蟻の穴に流し込んで、蟻たちを溺れさせたのだ。

 「何でそんなことを知っている」

 「誰でもそれと同じような経験があるよ。ボクも似たようなことをしたことがある」

 そりゃそうだ。

 「その時、蟻を殺してやろう、と考えた?」

 「いや。そんなつもりは無かったな。ただそこに穴があるから、その中にどれくらい水が入るのだろうと思ったくらいだ」

 「殺そうと思って殺したわけじゃあないんだね」

 「ああ」

 「こうすれば蟻が死ぬとは思わずに殺すのと、殺そうと思って殺すことに違いがあると思う?」

 (コイツ。ガキなのに理屈っぽいことを言い始めやがるぞ。)

 「そりゃ違うだろ。例えば、交差点で出会いがしらに通行人を撥(は)ねてしまうのと、殺そうと思って撥ねるのとは、全然意味が違うもの。過失と故意は別のものなんだよ」

 「でも相手が死ぬのには変わりないよ。犯人が殺そうとしたかどうかは、死んだ人には関係ない」

 「そりゃまあ、そうなんだけどな」

 俺はこの子がこの話を長々続けるのかと思ったが、しかし、この子はここで口をつぐんだ。

 

 道を歩いているうちに、いよいよ暗くなってきた。元々、山間の道なので、日が陰りだすとあっという間に暗くなるのだ。

 一キロほど歩いた頃、俺はその子に話し掛けた。

 「すまんが、俺は頭を打って記憶が飛んだ。少しずつ思い出してはいるが、まだ駄目だ。君の名前は何だっけ?」

 男児が俺を見上げる。

 「ボクの名は亜門。それで、自分の名前の方は思い出せたの?」

 「俺か。俺は・・・」

 思わず足が止まってしまった。

 「ケン・・・何とかだな。ケンイチとかケンジとかだ。おかしいな。子どもの頃のことは思い出せるのに、自分の名前がはっきりしない」

 くすっと男児が笑う。

 「お兄ちゃんが自分で思い出すのが肝心だから、それまではひとまずケンちゃんと呼ぶよ。もう半分は歩いたから、あっちに着く頃にはきっと思い出すよ」

 真っ黒い路面の端に、うっすらと白線が続く。俺たちはそれを頼りに、とぼとぼと道を歩いた。

 

 しばらく歩いているうちに、俺の頭に浮かんだことがあった。

 「亜門。俺は猫を殺したこともあるんだ」

 これに男児は前を向いたまま返事をした。

 「ああ、知ってる。でも、その時も殺す気は無かったでしょ」

 「前にも話したことがあったのか。あの時の俺は・・・」

 幼な過ぎて、命の意味が分からなかったのだ。

 これも小学生の時だ。

 近所の家の庭で友だちと遊んでいたら、生まれたばかりの子猫を見つけた。

 子猫は全部で四匹だった。

 その猫の一匹を抱き上げると、ぷんと動物臭さが漂って来た。

 周りを見ると、近くに古井戸がある。

その古井戸の傍には盥が置かれていた。

そこで俺はその盥に水を張り、猫たちを洗ってやろうとしたのだ。

 「お風呂に入れてやろう」

 俺が友だちに向かってそう言った記憶が、微かに頭の隅にある。

 しかし、汲んだばかりの井戸水は冷たい。

 僅かな時間だが、冷水に入れられたことで、猫たちはすぐに死んでしまった。

 「その時の俺は、猫たちを殺そうなんて、塵ほども思っていなかったんだよ」

 ここで男児が俺の顔を見た。

 「猫が死んだことをケンちゃんが知ったのは次の日になってからだよね。悪気は無かったかもしれないけれど、後味は悪かったよね」

 「ああ。もちろんだ。今でも時々自分を責めている。夢にも見る。それは何十年経っても変わらないんだ」

 「ケンちゃんは、心の底から悪い人間じゃないんだね」

 俺はもう一度苦笑いをこぼした。

 「亜門。その言い方じゃあ、俺が悪人だっていうことが前提になっているだろ。俺はもちろん善人ではないが、かといって大仰に後ろ指を差されるほどの悪人じゃないつもりだがな」

 男児が足を止める。

 「ケンちゃんは自分がしたことに気づいてしまったからね。そうなると、やはり自分を責める。これは、殺そうと思って殺しても、そうは思わずに殺していても同じだ。自分が殺した、自分のせいで相手が死んだ、という自覚があるんだよ。そういう自覚があるかどうかは大きな違いだ」

 「殺意の有無はどうでも良いのか?」

 「自分が命を奪ったという後味の悪さは、殺意があろうと無かろうと大して変わらない。人が地獄に落ちるのは、その行為自体に罪があり、その罪を犯したがために罰を受けると思っているかもしれないけれど、実際はそうではないんだよ。ケンちゃん」

 「え?最後はどういう意味だよ」

 (コイツ。ガキのくせに何か宗教か何かを語るつもりなのかよ。)

 「本当はね。あの世には天国も地獄も無いんだ。死後の世界はもちろんあるけれど、それは宗教家が語るようなものじゃない。生きている間は個人と言う殻があるか、死ねばその殻が無くなる。生と死はその殻があるか無いか、その違いしか無いんだ。自分と他人を区別しているのがその殻だから、死ねば、自我と他我との境目が無くなってしまうんだ」

 「そりゃどういうことだよ。少し分かり易く言ってくれよ。要するに蟻や猫を殺しても地獄には落ちないという意味なのか?」

 「ここが天国、あっちが地獄というような境目は無いんだよ。人が死ぬと、その人は自分と同じような仲間のところに行くだけだよ」

 「仲間だと?」

 「ウン。同じ心根を持つ魂のところさ。相手を殺そうと思った時の悪い心は死んでからも残る。そんな心根は互いに引き付け合って、一つにまとまるんだ」

 「人殺しは人殺しの仲間で集まる、ということか」

 「そうだよ。結果的に、それが地獄と同じ意味になるんだけどね。世間で言われていることと違うのは、自分の犯した罪により地獄に『落とされる』のではなく、自ら進んで悪意ある魂たちの中に入って行くということなんだ」

 「じゃあ、生きている時に何をしたかということではなくて、その時にどう感じていたかという心の持ち様が大切だってことになるな。どう振る舞ったかではなく、どう感じていたかだ」

 男児が再び歩き出す。

 「そう。お金持ちが貧しい人のためにお金を寄付することがあるよね。善行なんだけど、その行為自体が善い行いじゃない。どういう気持ちでそれを行ったかが、その本人にとって重要なんだ。見栄や驕りを心に秘めていれば、いずれ同じような見栄っ張りの仲間の所に向かうわけさ」

 「なるほど。『魂胆』っていう言葉があるな。腹の内は魂に通じる。じゃあ、見た目の善良さや悪辣さには関係なく、腹の内の思いに応じた結果になるということだ。『コイツ。死んでしまえ』と願うのは、実際に殺してしまうのと大差ない。実際にやったかどうかじゃなく、心の持ち様で、死んだ後にどんな仲間の許に行くかが決まる」

 「そうそう。だんだん分かって来たじゃない」

 「じゃあ、昔、俺にもっともらしい説教を言っていた高校の教師だって、実は腹の内が真っ黒だったりもするわけか」

 「それって、中田っていう先生のこと?」

 「何でお前が知っている。前にも話したか?」

 男児は俺の問いには答えず、一方的に話を続けた。

 「その人が生徒に説教を垂れていたのは、自分の生活のためさ。本当は生徒のことなんか、露ほども考えちゃいない。その証拠に、その男は女子生徒の何人かに手を付けているからね」

 「はは。じゃあそいつが死ねば、中田は自分と同じような小ずるい奴らと一緒になるんだな」

 「そう。同じ心を持つ魂は、同じ所に集まる。刑務所と同じだね。ただし、こっちは刑務所と違って、一度入ると二度と出られないけどね」

 「それじゃ、やっぱり地獄じゃないか」

 「いや違うよ。ケンちゃんも『蜘蛛の糸』って小説を知っているでしょ。地獄に落ちた犍陀多(かんだた)に、仏様が蜘蛛の糸を垂らして助けようとしてくれる話さ。人はいざ死ぬと、自分と同じような亡者ばかりがいる世界に向かう。しかし、そこから先は小説とは違う。死後の世界には神様も仏様もいない。だからそこに蜘蛛の糸は下りて来ないんだ。抜け出したいと思っても、もはや自分独りだけの魂ではなくなっているから動きが取れない。だからずっと埋まったままさ。未来永劫にね」

 「言い方を変えると、人が死ねば必ず地獄のどれかに行くってことだな。天国などどこにも無い」

 ここで男児がにやりと笑う。

 「はは。まあそういう感じかな。でも、穏やかな生き方を心掛けてれば、同じように穏やかな仲間と一緒になれるから苦しくはないよ。地獄は刑務所に似ているけれど、刑務所にはそれ程悪くない所もある。天国みたいな楽園は存在しないけどね」

 「亜門。お前はまだガキなのに、色んなことを知っているよな」

 (ところで俺はどこでコイツと知り合ったんだろ。親戚の子か?その辺が俺にはまったく思い出せない。)

 

 さて、こんな話をしていると、二キロの道程を歩くのは、それこそあっという間だった。

 湖畔の道の先には緩い坂があり、片側は斜面になっている。反対側はやはり湖なので、切り立った崖だ。

 坂の頂上を超えると、その道のだいぶ先に警察の車両が何台も停まっているのが見えた。

 三百メートルは先だろう。

 既に四五台の投光器が設置されており、周り全体がライトに照らし出されているので、遠くからでもはっきりと様子が見える。

 「俺たちが会う筈だった場所はあそこだったのか?」

 「ウン。やっぱりもう終わってたね」

 ほんの数十分前に交通事故があったようで、ガードレールが破られていた。

 湖の側に乗用車が一台落ちている。

 救急隊員がその車に取りついて、中の人を運び出そうとしていた。

 搬出されているのは家族連れだ。夫婦らしき男女と女の子が一人見えている。

 担架に乗せられた男が隊員に何かを話しているようだ。あれがたぶん父親だろう。

 「どうやら助かりそうな雰囲気だな。何があったんだろ」

 

 この俺の呟きを、隣で男児が聞いていた。

 「ケンちゃんが事故を起こすのは、本当はこの場所だったんだよ。ここでケンちゃんはスピードを出し過ぎて、センターラインを越える。それはちょうどあの家族が乗る対向車がカーブを回って来た所だ。驚いたあの父親はハンドルを反対側に切る。それで、あの車がガードレールを突き破って崖を飛び出し、湖に落ちる筈だったんだ。もちろん、車の横腹に激突したケンちゃんも巻き込んでね」

 「え?何だよ、そりゃ」

 男児は俺の表情が変わるのには構わず、平然と話を続けた。

 「ケンちゃんはどうした気の迷いか、野兎の命を助けようとした。それでほんの少しだけ運命が変わって、この場所には来られなかった。それで野兎だけでなく、ケンちゃんもあの家族三人も助かったんだよ」

 この話し振りは、とても子どものそれじゃなかった。

 俺は男児に向き直った。

 「おい、お前。お前は一体どういう奴なんだ」

 

 俺が問い掛けると、男の子はびゅんと飛んで、五メートル先のガードレールの上に降り立った。

 「結果的に君は、あの三人と一匹の命を救ったことになる。それで本来はここで死ぬはずだった君の運命がほんの少し変わったんだ。ほんの少しだけどね」

 この時、俺の背筋には、さわさわと悪寒が走り始めていた。

 (コイツ。普通の人間じゃないぞ。)

 「おい。お前は一体何者なんだ。正体を明かせ!」

 男児が「くく」と笑った。

 「ボクの名はアモンだと教えただろ。ボクは何万年も前からこの世にいる。このボクが、このボクこそが、お前たちを冥途に送る者さ。言わば三途の川の渡し守を務める者なのさ。言葉を少し替えて、死神と呼んで貰っても構わないけどね」

つい先ほどまでとは一変し、男児の顔が強張(こわば)り、人間らしい表情が消えていた。

 その無表情な顔つきを目にし、俺の全身の血が逆流した。

 再び男児が口を開く。

 「山岡ケンジ。さっき言った通り、人の運命は大枠では変わらない。君が幾人かの命を救ったからと言って、その善行により、総てが許される、てな話の流れには絶対にならないんだ。あの世には善も悪も、罪も罰も無い。迷える魂を救ってくれるような神様も仏様もいない。あの世は物語のように甘いつくりにはなっていないんだ。ボクは今君のことを見逃してあげるけど、それは君が総てを許されたわけではなくて、ただほんのちょっと、この後の道筋が変わるだけなんだよ」

 悪魔アモンは俺の眼をぎゅっと見据えたまま話を続けた。  

 「いずれまた、ボクは再び君の前に現れる。その時は、今度こそ君があの世に行く時だ。そのあの世ってやつが一体どういう所かは、今はもう君も分かっているだろうね。君は自ら進んで、君の同類で作られる集合魂の一部になるんだ。今回ボクが君を迎えに来たのは、ボクも君の仲間だってことだよ」

 俺は何一つとして言葉を返せず、男児の顔をただ茫然と眺め続けた。

 「ボクはもう去る。それで君はもうしばらくの間、人生を楽しむ時間が出来るだろう。だが、それも再びボクが現れるまでの話だ。次にボクが来るのは明日かもしれないし、五十年後かもしれない。それまでの間、穏やかな日々を過ごせば、今よりは少しましな仲間の所に行けるかもしれないよ。そう思って、君の命が尽きる時が来るまで、今日起きたことを忘れすに生きることだね。じゃあ、ひとまずこれでお別れだ」

男児は俺にそう告げると、ゆっくりと身を屈め小さくなった。

 それから男児は急に体を伸ばし、『びゅいん』と音を立てて空中に飛び上がった。

 その直後、頭の上で『ばさばさ』と羽音がしたかと思うと、黒い羽が数枚、ゆっくりと俺の前に落ちてきた。

 あの子は烏に変身したのだ。

 その飛翔のあまりの速さに、俺はその烏が飛び去る姿を目で追い続けることが出来なかった。

 

 この時、俺は俺の身に起こった総てを思い出した。さらにまた、俺はこれから行き着く人生の終点をも悟った。

 そのことが俺にとって良いことかどうかは分からない。しかし、少なくとも俺の命は、これから先もしばらく続くことになる。

 あのアモンが再び俺の前に訪れる時、それはこの俺が死ぬ時だ。

 その時、この俺は穏やかな気持ちでそれを迎えられるかどうか。

 今の俺にはまだよく分からない。            (了)

 

◆注記:この話は、「日刊早坂ノボル新聞」(著者ブログ)の『夢の話第二八四夜 バイク事故』(二〇一四年十月三日掲載)を書き直したもの。初稿段階のもの。

◆盛岡タイムス紙 二〇一四年十二月十四日掲載。

◆『夢幻行Ⅰ ─悪夢のかけら─』 所収。