◎夢の話 第953夜 予知夢
五月九日の午前三時に観た夢です。
我に返ると、と言うより、夢うつつのまま茫然としている。
突然、目の前にモニター画面が広がる。
そこで・・・。
この先は記述することが出来ない。
私に関する予知夢だからだ。これは概ね、二三週間の内に実現することになっている。
ただ、口外したりするのは御法度で、事前に口外すると、際どいところで逸れて行く。
また、事後に吹聴したりすると、相応の罰が下る。
今後は、じっとして「神」の機嫌を損ねぬよう計らうだけだ。
過去に幾度か観たので、「これが予知夢」だという判断に誤りはない。
パターンは二つで、ホワイトボードにするすると文字が書かれて行くか、白黒のモニターにその場面が映し出される。その二つだ。
夢の途中で、「予知夢だ」と分かるから、ひと区切りしたところで、自ら目覚める。
すぐに神棚の所に行き、お神酒を新しいものに替えた。
自室の棚に置いてあるお神酒も取り換えることにした。
最近気付いたのだが、たまにお神酒を取り換えるのを幾日か忘れることがあるのだが、私の部屋のお神酒は全部乾燥して無くなっているのに、神棚のはまだ残っている。
神棚のお神酒の方が、減り方がゆっくりだと思う。
ま、言い訳は色々出来る。
私の部屋は、毎日数十本もお焼香をするので、いつも窓を空けてある。風通しが良いから水分が早く蒸発する。
もちろん、私はそうは思わない。この差が生まれたのは最近になってからの話だからだ。
一年くらい前から、「神棚のお酒が減らない」ことと、「お供えにカビが生えない」ことに気付いていた。
当家には仏壇が無いので、ご飯を炊く度に神棚にご供物としてご飯を上げるが、失念して幾日か放置すると以前はカビが生えたのに、今は生えず乾燥するだけ。
これも「風通しをよくすればカビは生えない」という理由が立つが、そうなると「部屋の風通し」説の逆説になる。
そこでまたさらに気付いたのは、あの「小さな老人」のことだ。
「小さい」「老人」「頭が剥げている」と、「神さま」の特徴を備えている。
ある意味、「なるほど」と納得した。
このことを記述すべきかどうか少しの間逡巡したが、「小さな老人」は夢に出て来たわけではないので、記録を残した方が良いと思う。
この貧相な姿は、幸運をもたらす「しるし」だから、仮にこのような妖怪が出没しても、怖がったりしなくともよい。
なるべく長く「傍にいて貰う」ことが大切だ。
これは昔の人が「昔語り」「昔話」として伝えて来たことと同系統の話になる。
まずは「信じること」が第一歩になる。
信じて「迎え入れる」人には、必ず変化が現れる。信じようとしない人はどこまで行ってもそのままだ。
ただ、「信じる」ことと「願う」ことは少し違うが、これは五年十年継続しないと感覚的に分からない。「畏れ敬う」という要素の違いなのだろうが、言葉で説明するのは難しい。
私はこれを体感的に理解するまで三十年くらい掛ったと思う。
誰もが前を通るテーブルの上に置いた「些細な物」が忽然と消えてしまうのは、「神さまが駄賃を取ったから」と思うと、腹が立たない。
代わりのものを置いてあるのは確実だ。
ちなみに、同じ系統の解釈でも、別の「筋」の立て方がある。
私の周りには、常時、十体くらいの幽霊がたむろしているから、酒を備えると「皆がそれを口にする」というものだ。
「枕元に水」「身近な場所に酒」は「(あの世の者への)癒し」の作法だ。これを行い、心から礼を述べると、周囲から消えて行く。
台所にも備えると良いのだろうが、気配がまったくゼロになると、それはそれで困る。
状況を判断するのに、幽霊の気配は割と役に立つからだ。
画像は同じ時に備えた「自室のお神酒」と「神棚のお神酒」だ。
四五日前に供えたものだと思うが、神棚のは半分までしか減っていない。二週間経っても、底の方には残ると思う。