◎病棟日誌 「悲喜交々」(七月七日)
先日の検査結果が来たが、心臓がまた肥大しているので、さらに体重を落とす必要があるらしい。これは心臓への負担を軽くするためだ。
これまでは、勝手に痩せて来たのだが、さらに意図的に2キロくらい減らす。バランスに気を付けつつ、食事の量を減らすわけだが、そもそも食が細いので、減らすこと自体は簡単だ。
だが、このトシで痩せると、しぼんでしまい年寄りになる。
最近、とみに感じるが、「寿命には逆らえぬ」のかもしれん。
ま、幾度も「終わった」と思った人生なので、今後はオツリの日々を味わうことが一番だろう。
いずれにせよ、次に心肺症状が出ればアウトだし、コロナに感染しても即死だ。
「死線上の綱渡り」は今後も続く。
病院で見掛ける人々の姿は、やはり悲し気なことが多いのだが、たまには微笑ましいものもある。
病棟を出て、少しフラフラするのでロビーの椅子に座ったのだが、その前を老夫婦が通り掛かった。
いずれも八十台後半のよう。
旦那さんが奥さんの手を引いている。奥さんは少し足が悪そうで、片足を引きずっていた。
仲の良さそうな夫婦だ。
「たぶん、結婚してから五十年は経っている。それこそ共に手を取り合って日々を過ごして来たのだな」
少しく感慨を覚える。そういう二人連れだった。
だが、目の前に来ると、会話の内容が聞こえた。
奥さんが「あんたが、あんたが」と愚痴ると、ダンナが「何言ってんだよ」とやり返す。
おお。これぞ長年連れ添った夫婦だ(笑)。日常会話はこんなもんだろ。
五十年か六十年も一緒に暮らせば、ごく普通だが、それでもどちらかが倒れるまでは、手を取り合って生きる。
次女が家に帰って来て、日によっては朝夕の送り迎えが三回ずつになる日もある。
次女は「自転車で通勤する」と言うが、帰宅が遅いし、暑いうちは駅まで送ることにした。
二年半も顔を見ていなかったから、「とかく娘に構いたい」わけだ。僅かな時間だが、車に乗っている間に、仕事や世間話などあれこれと話せる。
薄暗がりの中を運転していると、道の端に人影が立っている。
道幅六メートルちょっとの二車線道路だから、速度を緩め少し迂回する。
旧道で割と交通量が多く、車もスピードを落とさずに走るので、事故がやたら多い。そこで夜間などは慎重に対応するわけだが、私くらいの「死に掛け」の状態になると、「実際に道を歩く人」と、「現実には存在しない人影」の区別がつき難い。
この日は道端の人影がやたら多かったので、次女に「人間なんだか、幽霊なんだか区別がつかなくて困る」とこぼした。
怖いのは人間だ。幽霊ならひっかけても大したことにはならないが、人間なら事故になる。酒に酔い、車道側に寄って歩くオヤジが一番始末が悪い。
さらに「父さんくらいになると、人も幽霊も入り混じって見える」と愚痴を重ねたが、次女はもちろん、真面目に聞いてはいない。概ね私にしか見えぬわけだし、冗談だとみなし、軽く流してくれるから、次女は付き合いやすい。
追記)道端に立つ人影のうち、人間は普通に歩いているが、幽霊はじっとしているか動きがスローモーだ。それで何となく区別出来る。僅か二キロの間に五六人もじっとしていれば、誰でもおかしいと思う。
もちろん、心身の不調が見せる幻覚の可能性があることは否定しないわけだが、当人にとっては同じことだ。人間だろうが幽霊だろうが、ともかくは「気を付ける」ということ。それが本当な何かなどはどうでもよい。現実の一端なのだから当たり前だ。