◎古貨幣迷宮事件簿 中国銅幣の思い出
まだ二十台の頃の話だ。
週末になると、仕事帰りに都内O駅至近にあるOコインに立ち寄った。
この店はオバさん一人で経営するコイン店だった。
馴染みの客になり、冗談の言える間柄になった頃、ある日このオバさんに訊かれた。
「蔵出しに興味あるの?」
もちろん、答えは「あります」だ。
すると、オバさんは私に「長野の知人が骨董を売りたいというから、そこに行きたいけれど、その人の家は駅から離れている。興味があるなら一緒に行ってくれないか」と頼んだ。
こんな面白い話はない。
「蔵にあった骨董」を出して売ってくれるところに立ち合えるなら、お金を払ってもいいくらいだ。
片道三時間の運転だが、早朝にO駅まで迎えに行き、長野まで行った。
その当時は、興味の対象は専ら古貨幣ばかりで、骨董には及ばない。
蔵出しの内容は「焼き物」主体だったから、ただ脇でぼおっと聞いていただけだ。
週末だったせいか、帰路には道が渋滞し、高速に入るまでにえらく時間を要した。
途中休憩でコンビニみたいな店に寄ったのだが、その隣がGパン屋さんだった。
オバさんがトイレに行く間に、そのGパン屋に寄ってみた。サイズが合うのがあればそこで一本求めるつもりだった。
だが、女性店員二人の立ち話が聞こえた。
どうやらこの店のオーナーは経営が立ち行かなくなり店を閉めるらしい。
「この先どうしよう」という類の話だ。
その中でGパンの在庫に関する話題が出た。
「倉庫の在庫はどうするのだろう」みたいな話題になっていた。
その時は、何とも思わなかったが、オバさんを送り届けた後、家に帰ってから気が付いた。
「店を閉めるのなら、残ったものはきっと全部債権者に取られる。おそらく銀行だ。経営する方は銀行に渡す前にとにかく現金が欲しいだろうな」
記憶が朧気で、この話は自分が会社を作った後の話だと思っていたが、よく考えると、自分の会社を作ったのは、Oコインが店を閉めた後だから、これはまだ勤め人の頃の話だ。
翌日、研究所を休み、すぐにもう一度長野に向かった。
「在庫のGパンを全部買うけれど、幾らで売ってくれますか?」
畑違いの件だから、相場も何も知らない。親が商人で、商売のやり取りを間近で見ていたというだけ。単なる直感で行動した。
すると、店主はあっさり一本単価二百円を切る値段で「売る」と言う。
この話をする時には、いつも「その数二千本で」と言うのだが、実際は七八百本だったと思う。
店頭のGパンが一本二千円から三千円だった頃の話だ。
実は「バッタもの」としては案外「良い線の相場」だったと思う。
実際、店舗にあった方はそれなりの値段で捌けたのだが、倉庫の方は全然ダメだ。
売れ残りの品ばかりだったのだが、売れ残るにはそれなりの理由がある。
サイズが合わぬのが一番で、とにかく大きいか小さい。次がデザインが珍妙なものが多かった。昔、「ラッパズボン」が流行った時もあったはずだが程度がある。
倉庫の方は、結局売れず、多くが廃棄物になった。
素人の思い付きはやっぱり実らない。
ところが、話はこれで終わりにはならず続きがある。
Gパン屋が倉庫に使っていたのは古ぼけた納屋みたいな場所で、Gパンだけでなく色んながらくたが詰め込んであった。主に工具の類になる。
買い取りの際には、「Gパン」ではなく「倉庫の中身」で売買したので、中にある品は総て私の持ち物になる。ゴミは残して良いが、あとは持ち出し自由だった。
その工具の類の奥に小さな木箱があったのだが、中には中国の銅幣が入っていた。
詳細は分からない。。たぶん、店主の関係者(親)が大陸にいたか何かで、そこから持ち帰った品だと思う。コレクションとして集めた形跡がなく、ただ雑然と放り込んであった。
古貨幣に関心はあっても、中国の、しかも近代貨幣に興味は持っておらず、そのまま取り置いて、二十年くらい放置した。
状況が変わったのは、今世紀に入ってからだ。
知人の中国人を通じ、様々な中国人と交流が生まれ、故宮博物院の研究員やコレクターらとの繋がりが出来た。
そこで情報交換をしたのだが、銅幣も「収集対象になる」と言う。
ある収集家が「中国に型録があるから取り寄せるといいよ」と言うので、その勧めに従って、中国から書籍を取り寄せてみた。
すると、銅幣の中に希少品が幾つか混じっているのが分かった。
ぽつぽつとネットオークションに出して売ってみたが、ひとつ十数万に達する品が幾つか出て来たのだった。
Gパン屋で「イケる」と閃いたのとは違う展開だが、結果的にはあの売買にはしくじりが無かった。ここは「儲けた」のではなく「しくじらなかった」という程度だということは、私も認める。
画像はその時の銅幣の残りで、大物は既にない。あっても小役程度だろう。
だが、私には思い出深い品物だ。
蔵出しや解体現場にも幾度か立ち会ったことがあるが、それも雑銭の会を主宰していた縁による。どのように仕舞われていて、それがどのように出て来るのか。あるいは、何故そういう混じり方をするのかを現場で見ているので、そこで状況を見極める目が培われたと思う。
こういうのは、入札やネットオークションでは絶対に体験出来ぬ醍醐味だ。
そもそもこういう展開すら想像できぬと思う。
収集家の多くは、蔵の中のどの位置にお金が仕舞ってあるかを知らない。
(こういうのは、もちろん、他者には絶対に教えない情報だ。)
ここでの結論は、「足で集めた知見に勝るものはない」ということ。
昔は解体屋さんも買い出し業者とのネットワークを持っており、古物の一定の流れが出来ていた。
しかし、今はその流れを繋ぐ者が消えたので、とりあえずネットオークションに出して見るか、リサククル業者に安価で渡す。
処分の流れを知る者と関係を保てば、がらくたがお宝に化けるというのに、勿体ない話だと思う。