日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎幽霊に助けて貰っていたらしい

◎幽霊に助けて貰っていたらしい

 「あの世」画像の観察の仕方は、微視的に詳細を眺めるのではなく、「なるべく眼を離して俯瞰的に光陰を眺める」というものだ。

 細部のかたちではなく、全体の中で光の進行方向を捉えると、その中にルールに合わないものがある。

 日光は直線的に進むはずなのに、理由なく歪んだ箇所があったりする。

 

 二十九日の画像を眺め直すと、私は陽光の下にいたのに、背後には黒い影が出ている。

 影の出来ぬ筈の場所に影がある。

 そこで眼を離して眺め直すと、なるほど私の背後にいたのは、大きな「黒い女」で、私を守るように抱きすくめていた。

 化け物(たぶんアモン)の顔も僅かに見えるが、女の後ろにいたようだ。

 もしかして、アモンの手から守っているのか?

 それなら考えを検める必要があるかもしれぬ。

 

 この女の髪型は前にも見たことがある。

 肩までの長さで、昔で言う「聖子ちゃんカット」に近い。

 同一の女ではないと思うが、イリス系の悪霊でもないようだ。

 私はこの感じの幽霊によく抱き付かれる。

 ちょっと判断がつかない。

 

 さて、五月二日は通院日だったので病棟に行った。

 すると、オヤジ看護師の一人が話し掛けて来た。

 先日、「府中競馬場に女房を連れて行く」というので、あれこれアドバイスした男だ。

 「天皇賞は買わずに観てました。硬そうだったのですが、まさかタイトルホルダーが飛んじゃうとは。あれじゃあ、買っても取れなかったでしょう。レース途中で終わってしまい死にたくなった者が山ほどいるでしょうね。単勝が一倍台でしたから。買いました?」

 あまり嬉しくない話だ。

 「いや九分九厘手中にしている筈の馬券をしくじってね。シルバーソニック複勝と三連複だけ当てた。万馬券を当てているのに、枚数をあまり買わなかった。他にタイトルホルダーでガッツリ行っていたから、殆どチャラ、と言うか少しトリガミだわ」

 馬券は当てるかどうかではなく、どのくらい儲けられたかが尺度だ。ベテランになれば、当てられる精度は高まるが、買い方一つでアガリが全然違う。点数を絞るようになり、今度は当たらなくなる。

 

 すると看護師はこんな感想を漏らした。

 「いや、あのレースは当てるだけ凄いですよ。シルバーソニックは人気があるが実績がない。ディープボンドは調教の本数が足りないとかナントカ言われていましたから」

 心の中では、「実はお告げがあったから」という説明が浮かんだが、さすがにそれは話せない。

 そうでなくとも変人なのに、一層周囲から浮いてしまう。

 普段は会話の中で「あの世」の話などはほとんどしない。してもどうせ誰も分からない。

 

 だがここで頭の中で閃いた。

 「俺は本線を殆どの人と同じようにタイトルホルダー頭固定でガッツリ流した。大阪杯のささやかなアガリを全部突っ込んだ。そっちはレース中に飛んだわけだから、本来大損だった。だが、あのお告げがあったから、薄い方の二頭から流して、負け分が埋められた」

 てっきり、悪霊に「してやられた」と思っていたが、実はそうではないのか。

 

 「お告げが無ければ、あの組み合わせでは買いづらい。要は『騙された』のではなく、『助けて貰っていた』ということだ」

 そうなると、背後の大きな女の存在と結びつく。

 「アモンは例によって、俺をからかおうと思っていたが、あの女が俺を守ってくれたのか」

 真実はこっち。

 「勝つべき筈のところを勝てなかった」のではなく、「負けるべきところを負けなかった」だ。

 それなら、きちんとお礼をする必要がある。また、疑ったことを陳謝すべきだ。

 あの世の者は礼儀に煩いからな。

 

 そこで病院の帰路に神社に向かい、先日のお礼を述べた。

 「助けて下さりどうも有難うございました。あと、あれこれ疑ったのはすいませんでした。他意はありませんので」

 この日も撮影したが、別の女の姿が画像に残っていた。

 これは急死してからまだ数年で、自我・自意識が完全に覚醒してはいないと思う。それでも、私の存在は分かるから、こうやって現れる。

 慣れぬ人なら、この女の姿はほとんど見えないと思う。

 これが見えるだけで、その人の第六感は、かなりの精度だ。想像や妄想だけではない。

 

 以下はオマケの話。

 神社を出て、スーパーに立ち寄った。

 二階の駐車場に車を停め、入り口に向かうと、「例のあの感触」を覚えた。

 幸か不幸か、目の前にはガラス戸がある。

 すぐにカメラを取り出して、二枚撮影した。

 帰宅して、開いてみると、背中に女が貼り付いていた。

 男にも見えるが、これはその女の背後にその男がいるためだ。主体は女。

 画像が不鮮明だが、元々半透明の存在だ(可視域の外)。だが、前はエレベーターの扉で、錯覚を起こさせる物はない。

 それと、私が「これは女だ」と断言できるのは、現実に背中を触られた感触があったからということだ。

 幽霊は「こころだけの存在」で、こころは「波」だ。その波に同調すると、相手のことが分かる。

 女性の感覚は、やはり男とは異なる面があるから、それでこれが女だと分かる。

 

 最近は、自分の感覚と、眼に見える事実がピタッと合うようになって来た。

 いよいよ完成形に近くなったか。だが、それはあの世がさらに近くなったという意味でもある。

 

追記)神社境内で俯く女

 ウェブ画像は手元にあるものとは解像度が異なり殆ど見えない。この女性は高齢になってから亡くなった人だが(たぶん七十歳くらい)、突然、脳の疾患で急逝したと思う。死に間際に苦しんだ形跡がない。そのこともあり、自分が死んだことを自覚出来ていない。あるいは事故かもしれん。

困ったことに、死後に幽霊になり自我を留める者は、一部の特定の者だけではなく、誰もが通過する行程(ステップ)だ。すんなり生への執着をを開放して、自我を解き放てば、感情や記憶はまた寄り集まって、新しい人格を形成出来る。

輪廻とはそういうもので、ひとつの人格がかたちを変えて再現されるわけではない。

執着を捨てられぬので、それが求心力となり死後も自我を留めるわけだが、そうなると、幽霊は「執着心の塊」と同義になってしまう。

「前例はいない」という説は一定の説得力を持つ。

 

追記2)死ぬことの意味

 死後に起きることを客観的に把握し、その道筋を整理できれば、「死」や「死後の姿」が怖ろしいものではなくなる。

 単なる通過点に過ぎぬのであれば、怖れる必要はない。「死」は生まれ育ってから人生を共にした家族や仲間との別れを意味するものだが、その代わり、自我を解体・昇華させることで、再生の道が開かれる。ほんの少し断片的だが前世の記憶を誰もが持っているわけだが、今の人生の感じ方、考え方にに影響を与えているので、それを知ることでよりよい生き方を考え直すことが出来る。

 

追記3)死者からのメッセージ

 私はもの凄い数の「寄り憑き(世間的には憑依)」に見舞われるので、頻繁に「もう生きていたくない」と思う。これは昔から。

 「苦痛ばかりが増え、自尊心が踏みにじられる。もはや死んだほうがましだ」といつも思う。

 この心に負ければ、ホームに立つか衣装棚の手すりにタオルを巻く。

だが、幸いなことに、あるいは幸か不幸か、直感が働くので、何者かが自分に触れると、それを感じ取ることが出来る。

 二日のスーパーの前では、「誰かが背中に手を当てている」という触感があった。画像は朧気でも、皮膚の感覚の方は鮮明だ。

 顔のかたちが見えるとか見えぬとかは、当事者には関係がない。見て言っているのではなく、触られたからで、これは他人に伝わらない。

 よって、他の者が何を感じようが、そんなのはどうでもよい。自分に起きたことを受け止め、粛々と措置を取ればよいだけの話だ。この場合、他者が理解するかどうかは何の助けにもならないのだ。

 私も滅多なことでは他人の状況については言及しないので、お互い様だ。

 「この人はこうすれば簡単に改善される」と思うことが時々あるが、「瞼を閉じ、耳を塞ぐ者」に言っても通じないし、理解されないから、双方が不快に思うだけだ。

 

 と書いたところで、回線不通の電話が鳴った。

これは「それでよい」ということだな。

 「プ」の時と「プリン」、「プリリン」の時では、意味が違うようだ。

 これもきちんと把握できれば、対話が成り立つかもしれん。

 とりあえず、万馬券のヒントをくれることだけは確か(冗談だ)。

 たぶん、あの世の者は、そんなことより、もっと人類に伝えたいことがあると思う。