日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「中国雑銭の品評について」

◎古貨幣迷宮事件簿 「中国雑銭の品評について」

 整理ロットへ掲示した「復員兵のコレクション」は、従前から交流のある若手収集家が購入した。

 「雑銭の会」の「盆回し」の流れは、単に品物のやり取りだけではなく、意見交換を行い、情報を共有することが旨としてある。

 また、「先達」の若手に対する務めは、単に知識を提供するだけでなく、ものの考え方や生き方について何らかの示唆を与えることだと思う。

 そこで、彼にはこのような質問をした。

 

「次は貴下への課題です。

1)中国銭コレクションは日本の軍人が集めたものだが、彼はこれをどうやって集めたか。

推測出来ることを述べよ。

2)雑銭を眺めた感想はどうだったか。回答はブログの方で紹介させていただきます。」

 

 着品後、程なく返信が来た。

 以下は彼のコメントになる。

 

 頂いた課題ですが、本日は(2)の「雑銭を眺めた感想」を書かせていただきます。

 (1)については熟考を重ね、近日中に送らせていただきます。

 以下、課題の感想です。

 

 今回の中国雑銭は、一括のウブ銭とは違った楽しさでした。

 中国銭が主体ですが、安南銭・鐚銭・長崎貿易銭までジャンルが広く、また、やや少ない手(永暦、嘉靖、洪徳など)が1個ずつ入っていた事から、おそらく色々な出自の雑銭が混ざっており、コレクションの一部もそのまま入っていると予想しました。

 これは、中国銭などの蔵品が偏ってしまっている僕には最適で、とても楽しむ事が出来ました。

 また、製作の違いから、日本の鋳写(和鋳鐚)と判断できるものも見つかりました。

 面は中国銭と殆ど変わりませんが、背は日本銭の特徴がよく出ており、強い磁性もあり、希少と思います。

 もともと、中国銭については「(珍品の書体まで)全て集める収集」ではなく、「比較用に1枚ずつ欲しい」という心持ちななので、コレクションは非常に充実させる事ができました。

 丁寧に文章を書く機会は少ないので、再提出にならなければ良いのですが…

 以上です。

 

解題とコメント

 物事を観察する時に必要なのは、「まずは俯瞰的に眺める」という視点です。

 収集家に対し、あえて「どう見えるか」を問うのは、多くの人が「すぐさま封を解いて個別の品に眼を遣る傾向が強いから」ということです。そのことで情報の多くが失われてしまいます。

 この品は本会の買い入れを通じて得た品であることは事前に告知してありますので、注意深くそれを読んでいれば、地方の買い出しや古道具商を通じて得た品であるという入手経路が分かります。ちなみに、個人の集めたコレクションはありません。

 内容は一切検分していませんが、注文のある永楽・洪武だけは大半を除外してあります。

 穴銭雑銭の多くは寛永銭ですが、差し銭の場合は、中頃に中国渡来銭が混じっていることがあります。この場合は数枚程度ですが、これが見付かると受け取って貰えぬ可能性があったので分かりにくいように混ぜた。

 江戸期から保存されていた差し銭などでは、きちんと銭種を揃えてあったりするのですが、銭の交換相場に左右されぬ状態に整えたということだろうと思います。

 お金持ちの蔵から出た差し銭は、整った銭ばかり(文銭など)で構成されています。

 以上は観察眼のほんの一例ですが、「仕舞われ方によって、仕舞われた時代が分かる場合もある」ので、まずは全体を眺めろというわけです。

 

 この場合は、貴下の指摘通り、色んなルートから集められたもので、青錆品などは古道具屋経由だろうと思います。また、こより紐などが断片的に残ってたりするものもありますが、これは銭箱から取り出して、そのまま放り込んであったということです。

 雑銭の「ウブさ」は、埃の乗り方や汚れ方、割れ品欠け品の混入の程度で分かります。

 欠損があっても、お金なので「なるべくお金として役立てよう」という意図から、混ぜ込んであるのが普通です。

 これが人の手を介すると、欠陥品は嫌われるので、中間の業者さんなどはこれを見付けると除外します。質を揃えると、枚単価が高くなるからですが、その過程でめぼしい品も目に付くので、途中で消えてしまいます。

 幾度も書きましたが、雑銭はそれが仕舞ってあった蔵に近ければ近いほど単価が高くなるのです。

 コイン店頭の残り物は別として、雑銭の中に汚い品、割れ欠け品が多くあれば、大概は「誰も見ていない」という意味だと解釈すればよろしいです。

 以上は若干、珍品探査的な意味合いで受け取られがちですが、「お金としての遣われ方」「扱われ方」としても意味があることが多いので、「まずは全体像を眺めて、これに関わったひとの手を想像すべし」、と言うのです。

 

 ついでなので、思い出話を付け足します。

 NコインズOさんとは気軽にお付き合いさせて貰っていたのですが、時々、「(仲間として)付き合ってくれ」と品物を渡されることがありました。

 掘り出し物とは遠い品で、私にはまったく対象外の古金銀とか、中国銭などです。

 要る要らないは関係なく、「付き合いで頼む」なので、否応なしですが、寛永銭だけでなく差し銭の中国銭が出ることもあったわけです。

 これが差し一本三千円くらいを三十本などと言う数量なので、心中では閉口したのですが、さすがに未選品でした。

 引き受けた品はそれよりも安価に処分することが多かったのですが、たまに和銭が混じっていることもあったのです。誰も手に取ろうとしない中国銭を引き取って、何気なく見ると、慶長通寶や平安通寶が混じっていました。五枚くらいの慶長通寶は、いずれも寶頂星手だったので、「付き合いでも、たまにはいいこともある」と思いなしたものです。

 中国銭だけの差しは、江戸期の使用停止の後くらいに括られたものがありますので、内容をよく検める必要があるようです。

 

 かなり急いで記したので、内容が整っていないが、あまり使える時間がないのと、机に向かえる時間が限られることによります。

 推敲や校正はしません。

 

追記捕捉)若手には必ず記すことを忘れていた。

 「収集」はあくまで道楽のひとつで、芸事習い事ならまだしも、「芸者遊び」と同じになっていることがあるし、そう見なした方がよい。少し嗜む程度なら問題はないが、「あっちにもこっちにも」と手を出すのは愚か者のすることになる。時々は手を止めて「自分はキャバクラに通っているのと同じことをしている」と周りの状況を見詰め直すことを勧める。

 どんなにこの世界に精通しようが、所詮は道楽でけして褒められたもんじゃないということ。

 ま、「毒を食らわば」と言う言葉もあるので好き好きだが、若いうちはそれこそ広く世界を眺めることだ。