日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎座敷童のいる屋敷の話

座敷童のいる屋敷の話
M
家のケース

 岩手県のK町には「旦那さま」の血筋がふた系統あり、そのうちの片方がM家だ。
 「旦那さま」とは、いわゆる豪農のことで、町を二分するほどの地主だった。
 農地改革の時に土地は分断されたが、そもそも豪農が形成されたのは、文政から天保期の飢饉の時だ。
 天保三四年の飢饉では、「七月までみぞれが降り、九月には初雪が降った」と記録されている。
 作物がまったく採れぬので、百姓たちは土地を担保に金を借りた。借りた相手は町場の商人か、あるいは地元で比較的ゆとりのある百姓だ。
 飢饉は断続的に十年くらい続いたので、当然、借りた金を返すことが出来ない。多くが土地を借金のかた取り上げられ、小作の立場になった。
 よって、豪商・豪農と言っても、何百年も前から裕福だったわけではない。百五十年かそこらの成り上がりだった。

 のっけから脱線したが、そのM家の屋敷が「築百三十年くらい」だと言うので、見学させて貰ったことがある。それももはや今から三十年は前だから、今では「築百六十年」にはなっているが、今でもまだそのまま残っている筈だ。
 県が文化財に指定しようとしたが、もし指定を受けると、改築が出来なくなるので「ずっと断っている」と言っていた。

 M家自体は、仙台で病院を持っており、今は一族総てが仙台に居る。かつてお屋敷には誰も住まず、向かいの家の人が管理人になり、時々掃除をしていた。
 見学に行った際には、その管理人に案内して貰った。

 M家は百姓家なのに、部屋が「少なくとも十六以上ある」どでかい屋敷で、家の中は迷路のようだった。
 使用人の部屋や養蚕用の部屋などがあり、中は複雑だ。
 その中の一室が「座敷童の出る部屋」ということになっていた。
 管理人の説明では、「襖の敷居の上に頭を載せて眠ると、子どもが現れる」そうで、実際に見た人が複数いるらしい。
 管理人が所用で自宅に戻った隙に、当方は敷居に頭を載せて横になってみたが、さすがに急には眠れない。
 その家に泊まらなければちょっと無理だが、泊まるのは怖いくらいの広さと古さだ。いざ泊ったら、夜中にきっと足音が聞こえると思う。
 (こういう予感は、当方は正確だ。予感がしたら必ずそれが起きる。)
 この時には残念ながら座敷童には会えなかった。

 管理人が戻って来るまで、玄関近くの衛屋で外を見ていたが、中庭には、元は池だった湿地があり、池の痕跡が残っていた。
 「昔は錦鯉なんかがいたのだろうな」
 母の実家も大きな農家だったが、庭に池があり、錦鯉が数十匹も泳いでいた。
 そんなことを考えながら眺めていると、その池の近くを人が通った。まだ若い女性で、白地に藤の花の着物を着ていた。
 「着物」と言うより、襦袢か寝巻で、一瞥して「病人なのだな」と思った。
 母が入院時に似たような寝巻を着ていたが、それとそっくりだ。
 「後ろの方に、この家の人が帰って来た時に滞在するための家がある」と聞いていたので、「たまたまこの日は誰か来ていたのか」と思った。
 家の人がいるなら、挨拶をしなくてはならないから、縁側廊下のところまで出て、「こんにちは」と女性に声を掛けた。
 「私は※※と申しますが、今日はこのお宅を見学させて貰っています。顔つきが悪いかもしれませんが、けして悪人ではありませんので」
 すると、着物の女性は、小さく頷いてそのまま歩き去って行ってしまった。
 正面から見ると、まだ二十二三歳かそこらだった。

 その家を訪問したのは、古文書の類を確認する目的だったが、蔵の中には山のように書付や伝票類があった。
 養蚕農家で、大地主だったから帳簿類も多い。
 プレハブの整理小屋を建てねば作業が出来ぬほどの量だったので、書類検分は諦めて、その日は帰ることにした。

 その家の管理人を紹介してくれたのは、義理の叔母だったが、叔母はK町出身で、管理人とも懇意にしていた。
 実家に戻り、叔母のところにお礼に行き、町の様子を伝えた。
 「K町は良いところですねえ。春から秋までは最高の景色です」
 眼が洗われるような生き生きとした緑が溢れているが、冬にはそれも深い雪に覆われてしまう。

 「ところで、Mさんの家の中庭で若い女の人に会いました」
 そう言うと、叔母は驚いたように眼を見開いた。
 「ご病気のようで寝巻を着ていました」
 すると、叔母は思わぬことを言った。

 「何歳くらいのひとだった?」
 「二十歳かそこらの年格好でした」
 「やっぱり。それはきっと※※ちゃんだよ」
 
 その家には叔母と同級生の娘がいたが、若くして病気で亡くなった、とのこと。
 「藤の花」の寝巻は、その娘が入院していた時に着ていた柄で、叔母が見舞いに行った時にも着ていたそうだ。
 叔母とはいつも忌憚なく「あの世」の話をするが、「同級生だから私も会いたかった」と言っていた。
 町の者で幾人かその家の死んだ娘を見掛けた者がいるが、叔母本人はまだ会ったことが無いそうだ。

 怪談としてこの話をまとめているが、「怖さ」はまるでない。
 当方が会った時には、ごく普通の人のように見えた。
 幽霊の半透明の姿には見慣れているが、あの娘は質感がリアルで、今でも「あれも本当に幽霊だったのか」と首を捻る。
 だが、あそこには他に当て嵌まりそうな別人が存在しない。

 K町は北上山地の山の中の町で、いかにも幽霊も妖怪も出そうな佇まいだ。町の入り口に商人の蔵があり、昭和を飛び越して「大正時代に戻ったのか」と錯覚するほどだ。
 その蔵の前に自動販売機があるが、缶コーヒーを六十円か八十円で売っていた。今もきっと百円以下で買えると思う。

母の生家のケース

母の生家も「座敷童の出る」旧家で、当方は実際に会ったことがある。五歳くらいの時のことだが、商売が忙しい盛りに、当方のみジジババの家に預けられた。その時に見た。
 真夜中の午前一時になっても、枕が変わったことが原因でなかなか眠れなかった。
 布団に入ってはいたが、目覚めていた。

 この家は築百三十年くらいで、やはり部屋数が十幾つある。当方が寝ていたのは、今の近くの小部屋で祖母が隣で寝てくれた。ガラス戸一枚で台所の板間と隔てられている。

 その板の間の方で、子どもが歩く足音が響いた。

 その足音は、常居を始め、家じゅうを歩いていた。「ペタペタ」「ペタペタ」と裸足の音だ。

 そのうち、その足音は当方の寝る小部屋の前に来た。摺りガラスの戸を隔てて、当方の頭の上にその子どもが立った。
 怖かったが、瞼を開いて見ずにはおれない。
 顔があるらしき辺りを見ていると、その子供がガラスに顔を近づけた。「ガラスに顏をくっつけた」と言った方が正確かもしれん。
 すると、そこに見えたのは人間の顔ではなかった。皺皺の胎児のような顔だった。
 それが怖すぎたので、しくしくと泣いたが、その声に祖母が気付き、「大丈夫か」と声を掛けてくれた。
 祖母の声を聞いたら、何だかほっとして、当方はそのまま眠りに落ちた。
 泣いた理由を言わなかったので、祖父母はその家絵の従兄が苛めたのだと思い、翌朝従兄を叱っていた。
 子ども心に「申し訳ない」と思ったが、同時に「黙っていれば家に帰れる」と思った。実際、その日の午前中に家に戻された。

 旧家の家に棲む子供の妖怪は全部が「福の神」とは限らない。後年になり、この話を母の実家でもしたが、「家の歴史が何百年もあるから、夭折した子どもは沢山いる」と言っていた。


 眼疾がぶり返し、細かい文字が見えぬので誤変換があると思います。
 正真正銘のブラインドタッチです。

 ちなみに前段の話は「怪談」シリーズの第四話「みさきちゃん」になる予定です。着物の娘がみさきちゃん(仮名)。今日中に脱稿。