日刊早坂ノボル新聞

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◎後で思い出すと解釈に困る体験

後で思い出すと解釈に困る体験
 津波の後、数年が経ってから、東日本各地の線量の計測をしていた。「政府の公表数値に嘘があるかもしれん」と考えたからだが、埼玉から岩手に帰省する度に一般道を通り、ついでに青森や秋田まで行っていた。
 太平洋側の沿岸の道を通ることが多かったのだが、この出来事は2016年か17年のことだったと思う。

 福島の県道を走り、南相馬付近に達したが、真夜中なので周囲は真っ暗。人家もない。
 前後に車もおらず、見えるのはヘッドライトの先だけだった。
 すると、唐突に五歳くらいの男児が現れた。

 道の左側を歩いているのが見えたのだ。

 一㍍くらいの歩道があり、男児はそこを歩いていたが、背中からでも、背丈から「五歳くらい」と分かる。
 午前二時頃のことだったが、その時点ではこれがおかしなことだとは思わなかった。
 数分前に、集落を通り過ぎたが、その際に三歳くらいの女児を連れた母親を追い越していたからだ。
 男児を見た時には、「たぶん、さっきの親子の連れ」だと思った。
 この後、すぐに道に小動物(イタチのよう)が飛び出し、これを轢いたので、そっちの方に気を取られ、男児のことは忘れてしまった。

 だが、後で思い出すと不審な点が多い。
 母娘を見てから、男児の脇を通るまでに数分あった。たぶん、三分から五分だ。そうなると、母娘と男児は二キロ以上離れている。夜中の二時頃だ。五歳の子どもを、二キロ先に行かせる親がいるかどうか。
 それ以前に、母娘もそんな夜中に何の用事で道を歩いていたのか。旦那と喧嘩をして、家を飛び出て来た、とか?
 割と線量が高い地域(0.40くらい)で、多くの店は閉店しているし、集落自体真っ暗だった。

 あれが生きている人なら、どんな事情があったのか。
 既に死んでいる者なら、どういう背景があったのだろう。
 場所が場所だけに、震災や津波との関連を思い浮かべてしまうが、それとは関係がないと思う。 

 今なら瞬時に判断がつくと思うが、こちらの視線に気付かれ、後部座席に乗り込まれるかもしれん。
 ちなみに、完全に実体化している時には、普通の人と寸分たがわぬ状態なので、いても気付かぬことが多い。
 駅の雑踏に混じっていることがあるが、殆どの人は隣に立っているのが人間でないことに気付かない。 

 

追記)「あの世」ウォッチングを始めて、何年か経ったが、嫌なことのひとつは、「幽霊が生前していたのと同じことを繰り返している」ふしがあることだ。
自死した者は、死に間際の思いに取りつかれているから、自死の瞬間を繰り返す。これはまあ、分かる。
 だが、神社で手を合わせたり、何処に行くのかひたすら歩いていたりするのを見ると、「果たして自分がもう死んでいることを理解しているのか」と疑問に思う。

 幽霊の側が見ている世界はどんなものなのだろうか。
 その一部は分かっていて、彼らは「自身が思い描いた世界の中にいる」ようだ。
 幽界では、自分が思い描いたものが現実として現れる。要は「心象だけの世界」だ。
 自己の「内と外を認識する」ことが、自我であり、「存在すること」だと思う。

 生前、子どもを殺していた男(たぶん)の幽霊を見たが、この男は脇に女児を連れていた。
 だが、女児は幽霊ではなく、男が創り出したイメージだった。男が思い描いたものがかたちになっているのだと思った。