日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎病棟日誌 悲喜交々(4/2、4/3)「怖いらしい」

病棟日誌 悲喜交々(4/2、4/3)「怖いらしい」
 まずは火曜から。
 ベッドサイドに写真を置いていたら、オバサン看護師が目ざとくそれを見付けた。
 「お孫さんの?」
 「いや。座敷童の写真ですよ。これを近くに置くと、運が良くなる気がするもんで、机に一葉、ロッカーに一葉、そして病院用のセカンドバッグにも一葉入れてますね」
 「見てもいいですか?」
 「どうぞどうぞ」
 だが、写真を見て、首を捻っている。
 ああ、お稚児さまが見えないのだな。
 あの世画像の多くは半透明だ。景色の中に溶け込んでいたりするから、眼に入らない人も多い。見慣れて来ると、ほんの薄らとした断片だけで、それが男だとか女、年寄りなのか子どもなのかが分かるようになる。私の場合は何千枚も見たので、ほとんど「もや」のような状態でも、何となく分かる。
 その一方で、早合点したり勘違いをすることも多い。これは慣れがもたらす判断違いだ。

 「あれ、左側に何かいるような気が」
 「そっちは気にしなくていいのですよ。そいつは専ら私にだけ用事があるヤツなので」

 そちらは普通の幽霊で、私に語り掛けて来る者だ。

 過去に現れた「縞女」と完全に一致するかどうかは分らぬが、これは子どもの姿をしているが子どもではない。

 心が子どものままでいる・いたいから、その姿をしている。
 私だって、死ねば概ね三十二歳くらいの姿になると思う。

 「よく見れば分かります。必要なら差し上げますよ。何せ、座敷童は幸運の神さまですから」
 だが、看護師は写真をさりげなくベッド脇に戻すと、そのまま去って行った。
 ここで、何となく気付く。
 殆どの人は幽霊に接した機会が少なく、あまり慣れていない。
 「だから、恐怖心があるのだな」
 とりわけ、左側のは少し薄気味悪い表情だし。

 

 ここでここ数日の自分の振る舞いを顧みた。
 「イケネ。知り合いの幾人かに『目出度い画像です』と記してプレゼントしちまった」
 幸運の神さまを貰えば喜ぶだろうと思ったからだが、しかし、世間では、こういう考え方は、少数派なのかもしれん(反省猿)。
 そもそも、左右の女児の両方とも見えぬ人がいるわけで、そういう人はきっと「コイツは何を言っているのか」とあきれるはずだ。
 最初から思考回路が違うのだ。
 例えば、日本人は中国人や半島人の価値観を殆ど理解出来ないわけだが、それもお互い様で先方もこちらを理解していない。基盤が違うから、片方が見るもの見えるものが、片方にはまったく見えない。
 それと似ている。
 見えぬ人には、このルートの幸運は寄って来ないわけだが、別にそれでよい。本来、「存在していない」から気にもしない筈だ。

 翌日になり、循環器の専門病院まで定期検診に行った。
 ひと通りの検査をして貰ったが、やはりまったく問題なし。
 「ここ七年くらいで最も調子がいいですね。三百段くらいの階段を上がれましたし」
 「ほう、そりゃスゴイですね。どこで?」
 「秩父の観音院というお寺で、三十度くらいの傾斜の階段が三百段弱あります。途中で立ち往生すると思ったのですが、上がれました。心臓の調子が良いわけです」
 レントゲン、心電図とも異状がなく、聴診も良好だった。

 この主治医は「死後の存在を信じる」と明言する人なので、これまでごく数人にしか見せていない(見せられない)強烈な写真を見せたことがある。それでパニックにならず、むきになって否定したりもしない、正真正銘の科学者だ。よって、率直な物言いが出来る。

 「一月に『座敷童』に会ったのですが、吉報が続いてます。と言うか吉報しか来ないのです」
 体調は改善したし、経済的にもかなり上向いた。
 「とりあえずひと月で万馬券を三度当ててますし、これからどんどん良くなって行く気がします」
 個々の現象面でどうのというより、心の中に青空が拡がった効果が大きい。
 「それは良かった」
 「ま、物事には必ず反動がありますから、それも頭に入れてあります」
 ここで、喉元まで「写真を差し上げますか?」と出かかったが、しかし前日のこともある。平然としているが、内心では理解不能な世界に関する恐れを抱いているのかもしれん。
 そういう意味での恐怖心は、今の私にはまったく無いから、それを持つ人の気持ちが分からない。

 「じゃあ、次はどうしましょうか。現状では問題なしですから、半年後でどうですか」
 おお。これまで「ひと月後」かよくて「三か月後」の検診スケジュールだったが、ついに「半年後」になったか。
 ま、循環器だけの話だが、前回は「脚部大動脈のカテーテル」、その前には「心臓のカテーテル治療」を勧められたのだった。
 まったく治療しなかったが、私の場合は、有機体的な病因以外の病因が時々降って来るから、そっちはそっち流儀で降ろすことになる。
 稲荷の障りの時に心臓に手を入れたら、たぶん、私は死んでいたし、廃病院の女を見た後なら、脚を切られていた。そういう確信がある。

 ま、苦痛や困難は、それが苦痛や困難と思わなければ、割と平気になる。認識の仕方が変われば、同じことが起きているのに、受け止め方がまるで違う。

 今、私の心中に広がる「青空」はそういうことなのかもしれぬ。

 ともあれ、プロセスは違うが、結局は「お稚児さま効果」だと思う。心が晴れているから、雨が落ちて来ない。
 今後も、常にお稚児さまを心に抱いて暮らしたいものだ。
 いつも「願うことと信じることは違う」と記すわけだが、自分が「信じる」「信じられる」ためにどうすればよいかを私は知っている。
 信じることで、自己免疫力のスイッチが入りやすくなると思う。

 

追記)二人の子どもは、二人でひと組のようだ。

 左側が「ゆかり」で、「所縁」すなわち「因果」を表わす。

 右側が「のぞみ」で、「望み」すなわち「希望」を表わす。

 この世には、「ゆかり」が見えず、「のぞみ」を見失っている者が多い、とのこと。