◎真夏の怖い話
まだカーナビが普及していない頃に、A県を訪れた時の話です。
道に迷い、気がついたらすっかり陽が落ちていました。
「どこかに泊まろう」
幸い、この県には、温泉が沢山あります。
すぐに最寄りの温泉街の駅前に行きました。
旅行の裏ワザで、平日なら、夕方、駅の改札付近に行くと、法被を着た「呼び込み」が立っています。その日の旅館に空きがあり、そこに客を追い込むのが仕事です。当日の夕方なので、予約なしでそこに来る客を探すのは難しくなってます。
そのため、2食付で3千5百円とか4千円で泊まれることがあります。
もちろん、急に空きが出た時の話で、出ないことも多いので、あてにはなりません。
私は電車で旅をする時には、寝袋持参で、これで公園で寝るか、駅前で呼び込みを探すかして、夜を過ごしたものです。
車を寄せると、駅に人はほとんどいませんでした。
でも、やっぱり男が立っています。
そこでこっちから声を掛けてみました。
「どこか泊まれるところはありますか」
男はちょっと考えて、「1軒だけあるけど・・・」と答えます。
いい加減、疲れていたので、「じゃあ、そこに泊まります」と伝えました。
紹介されたのはO山に向かう途中の旅館です。
一本道なので、迷うことなくそこに着きました。
玄関を入ると、帳場がありましたが、かなり昔風です。
お風呂は、十人が入れるかどうかの小さい浴槽でした。
時計を見ると、9時を回ってます。
「今から食事出来るんですか」
「大丈夫です」
古くて、小さな旅館ですが、4千円なら安いよな。
部屋に案内されると、すぐに食事が来ました。
「食べ終わったら、お膳は廊下に出しといてください」
さすがに、この時間では、後片付けが翌朝になるわけね。
食事は立派なものでした。お刺身から天麩羅と、小さめですがステーキまで付いてます。
「これで4千円なら安いよな。客が殺到する」
ま、きれいなつくりの温泉ホテルなら2万円からってとこです。
小さく古いので1万幾らが妥当なとこ。
それでも半値か3分の1になってます。
ビールを飲むとたちまち眠くなりました。
すぐに眠ってしまい、尿意を催して目覚めたのが12時過ぎです。
廊下の方から、かやかやと話し声が聞こえます。
部屋を出て、廊下の奥にあるトイレに行こうとしました。
途中には座敷がありますが、そこから人の話し声がしています。
「オレはだな~」とオヤジの声。
「止めてくださいよ」と若手。
きゃあ、きゃあと女性の嬌声まで聞こえます。
「随分と遅くまで飲んでいるもんだ」
でも、ま、田舎なら当たり前です。
私の田舎だって、冠婚葬祭の時には、長っ尻で12時1時になっても帰らず飲んでいるオヤジがいます。
トイレに寄り、再び部屋に戻りました。
またすぐに眠りに落ちます。
次に目を醒ましたのが2時頃。
なんと、まだ人の声がします。
「さすがに煩いよな」
またトイレに行きたいので、その時に注意しよう。
まずは先にトイレだ。
座敷の前を通ると、酔っぱらったオヤジの声がします。
「俺はなんでこんなことになったんだあ」
すっかり飲んだくれてやがります。
トイレに行き、また廊下に戻ると、声がしなくなっていました。
「ありゃ、あの人たち帰ったのかな」
座敷の前に行き、襖を開けてみたのです。
すると、その座敷には誰もいませんでした。
人がいないだけでなく、宴会を開いた形跡もありません。
ただがらんとした畳の部屋になっていました。
「おかしいな。どうなってるんだろ」
不思議に思いますが、拍子抜けしたまま部屋に帰りました。
翌朝。帳場で女将に尋ねました。
「昨夜の宴会はどういう方々なんですか」
よく飲んですね、と続けるつもりです。
ところが、女将は「昨日のお客さんはお2人だけです」と素っ気なく答えました。
じゃあ、あの座敷の人たちは、一体誰?
まるで映画の『シャイニング』みたい。
今はこの世にいない人たちが、そこで宴会をしていた模様です。
後で調べたら、そこの旅館は自殺者が「最後に泊まる旅館」として有名でした。
そこに泊まった翌日に、奥の山に分け入って死ぬ人が多かったようです。
実際にあった話ですが、その旅館自体は十年以上前に店を畳んだとの話です。
有名なところなので、ここの県の人に「O山の麓にあったオバケ旅館」と訊くと、答えてくれるかもしれません。
現実に遭遇する怪異現象には、おどろおどろしさがないことの方が普通です。
ごく普通の話し声や人の姿になっていますが、「絶対にそこに人はいない」状況下のことなので、それが生きた人間でなかったことが分かります。
日常生活の中では頻繁に起きている筈ですが、ほとんどの場合気づきません。
ここが現実と怪談(作り話)の決定的な違いです。
後記)O山は、いわゆる霊場として有名な場所ではありません。たまたまOを使用しただけですので、念のため。