日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎ある温泉旅館での体験

◎ある温泉旅館での体験

場所は北海道登別です。
既にウン十年前のことで、当の旅館は今は無くなったらしいので、地名を具体的に書いても問題はないと思います。

道北を旅して、登別まで戻って来たのは、夕方の7時過ぎ。
駅に降りたのですが、泊まるあてなどありません。
まあ、夏の盛りなので、駅前のベンチでも大丈夫です。
改札を出ると、法被姿の中年男性が、「部屋ありますよ」と声を掛けています。
「週末なのに、空いてたりするのか」と視線を向けると、その男性と眼が合いました。
「2食ついて3千円ですよ」
安い。飯がついたら、どうやっても5千円からなのに。
ちなみに、大昔なので、ビジネスホテル・シングルの値段が3千円くらいでした。
「あ。お願いします」
男性の車に乗って、旅館まで行きました。
駅からは結構離れており、移動に15分は掛かったと思います。

旅館に着くと、やっぱり古ぼけた木造の建物で、玄関を入るとすぐに帳場があります。
「フロント」ではなく「帳場」です。
建物自体は戦前からありそうな感じです。

客が少ない理由は簡単で、温泉なのに風呂がやたら小さいこと。
家族風呂の2倍程度の大きさの浴槽がひとつしかありません。
男女の区別も無く1室だけです。
そのため、誰かが入ると他の客は入れなくなってしまいます。
鍵も無いのですが、風呂場は帳場の近くなので、先客がいるところに入ろうとすると、女将さんが「今入っています」と教えてくれるわけです。
一応は温泉で、白いお湯でした。

8時を過ぎてからの到着でしたが、きちんとご飯だけは出て、これがまたしっかりしたご馳走です。
「おいおい。これで3千円とは安い」
ま、客が入らなければ、食材の多くは捨てることになってしまうので、夕方の時間帯の「出血大サービス」ということだったのでしょう。
ちなみに、「ボロい旅館」「山奥の旅館」で経営が成り立っているところは、概ね食事はきちんとしたものを出すようです。やはり生き残るには、それなりの理由があります。

風呂上りにビールを飲み、食事を済ませると、疲労からかすぐに眠くなりました。
そのまま眠り込んでしまいました。

ひと眠りした後、人の声で眼が覚めました。
近くの部屋で宴会をしている話し声です。
おそらく廊下の斜め向こう側にある座敷からでしょう。
時計を見ると十時過ぎでした。
「結構、遅くまで宴会をやっているんだな」
わあわあ、ぎゃあぎゃあと女性の嬌声まで聞こえます。
「ま、そろそろ終わるだろ」
布団に入り、また眠りました。

しかし、またひと眠りした後、声が聞こえて来ました。
「オレはだなあ。あの時に・・・」
「わははは」
先ほどよりもさらに大きな声です。
「煩くて眠れないよな」
時計を見ると、夜中の2時です。
まあ、私の田舎で冠婚葬祭があると、12時を過ぎるまで尻を上げないオヤジがいたものですが、幾らなんでも2時では酷すぎます。
「ちょっと注意してくるか」
酒飲みたちにではなく、女将さんに、ということです。

そこで起き上がって、まずは逆側のトイレに向かいました。
廊下に出ると、男女二十人くらいの宴会のような「がやがや」が聞こえます。
そこで小便を済ませ、廊下に出たのですが、帳場に行くには、廊下の先の階段を下りる必要があります。
座敷の真ん前を通ると、さっきまでの煩い声がピタッと止んでいました。
「あれ。皆帰ったのか。随分急だな」
部屋には灯りがついていません。
念のため、襖を開けてみると、そこには誰もおらず、がらんとした空き部屋でした。
宴会をした形跡もまったく無かったのです。
「おいおい。こりゃ一体どういうこと?」
ま、答えはひとつです。
つい直前にも、A県のI山の近くの旅館で、まったく同じ経験をしたことがあったからです。
(ほとんど同時期に似たような体験をしたため、記憶がごっちゃになっているところもあります。)

翌朝、やはり立派な朝ごはんを食べ、帳場で料金を払いました。
女将さんと従業員の話を聞いていると、前の夜には、私ともうひと組(男性1人)の宿泊客しか居ませんでした。
宴会なども無かった模様です。
「じゃあ、あの宴会の声は何だったの?」

ま、『シャイニング』と同じですねえ。
人集まりのあるところでは、こういうことが起きます。
私はとりわけ「駅」が嫌いなのですが、乗降客に混じって、色んな声が聞こえてしまうからだろうと思います。
「死にたい」とか「助けてえええ」などで、聞く度にぞくっとします。

こういうのは「頻繁に体験する人」と「しない人」の両極端に分かれるようです。
兄が北海道に旅行に行った時の記念写真を見せられたことがありますが、兄が写っている写真にだけ、所々、ドロドロの心霊写真になっていました。
酷いのは、湖の周りを十幾つもの顔が写りこんでいたりしました。
樹木に重なっていたのですが、アイヌの老人とか、侍、釣り人など、どういう人かまで判別できるほどです。
ところが、それを見ても、兄はそれが心霊写真だと認めません。
「それは、たまたま木のかたちがそういう風に見えただけだ」
そこで気付きました。
「なるほど。もう一人の同行者の方の第六感が鋭敏だから、その人がカメラを構えた時だけに顔を出すのだ」
兄は眼を閉じ、耳を塞いでいるため、見えないし聞こえないのです。
出ても無駄な人の前には、霊のほうも自ら出ては来ません。

この世に特別な「心霊スポット」など存在しません。
あらゆる所がそれです。
または、逆説的に言えば、「まったく存在しない」でも同じです。
兄にとっては、霊は存在しません。感じ取ることが出来ないのです。

すなわち、『聞く耳の無いところに、音は存在しない』のです。
聞く耳を持つ人には、様々な声が聞こえます。
もちろん、それは「能力」などではありません。ここはただ注意深いかどうかという違いだけです。
この世に特別な「霊能者」は存在しません。

あなたが「自分には特別な霊感がある」と思っているなら、それは大間違い。
正確には「ごく普通の感受性と想像力がある」です。
(どちらかと言えば、想像や妄想の類です。)
本当に霊感のある人は、撮る写真撮る写真がどいつもこいつも心霊写真になってしまいます。
そういう人は実際に存在しますが、表に出ることなく、ひっそりと暮らしています。
話題にするのもされるのもウンザリしているからです。

「霊感」「霊能力」を前面に出す人で、自らが撮影した心霊写真を見せてくれる人は、一人も居ません。
何度も書きますが、自分で心霊写真すら撮れない「霊能者」など、何の価値もありません。
ただの妄想家に過ぎないのです。