◎「治してあげる」と言われる(504)
相変わらず仙骨周辺に痛みを感じ、歩くのもままならない。
それでも、髪がボサボサなので、床屋を覗いてみた。すると、「三密」どころではない混雑ぶりだ。皆さん、この二月は散髪するのを我慢していたようだ。
そこで散髪を諦め、神社に参拝することにした。
駐車場から神殿まではおよそ百㍍なのだが、十㍍歩いては立ち止まり、また歩いては立ち止まりの連続でなかなか前に進めない。この日は平日で、参拝客が少なかったので、まあ何とか他人の邪魔にはならなかった。
「もう夏場だし、今日は撮影しなくとも良いかな」
通常、五月から七月までは、ほとんど何も起きない。
神殿の階段をそろそろと上がると、前の客が社務所の方に去るところだ。
恒例の女性と五十代くらいの娘という二人連れだった。
とりあえず、「来た」という記録だけ残すことにし、門の下で一枚撮影した。
つい習慣で、後ろを向くと、遠く離れたところに母子三人連れが見える。若い母親と幼児二人の組み合わせだった。
この辺、周囲の状況を確認するのが癖になり、映画に出て来る特殊工作員なみになっている(苦笑)。
神殿前で手を合わせようとすると、ガラス面の左手に人影が映っているのが目に入った。
全身黒づくめの服を着た女だ。
「どひゃああ。こんなに鮮明に立つものなのか」
画像の中に紛れ込むことはよくあるが、この時は直接、ガラス面で確認出来た。
すかさずカメラのスイッチを入れ撮影した。
拝礼をした後、歩きながら画像を確認したが、「目視で見える時には写らない」の決まり通り、姿を確認出来ない。
あの世の者は可視聴域の境界線をまたぎ、行ったり来たりしているのだが、それ以外にもあれこれと決まりのようなものがある。
どうやら物質的なものに起因するものようだ。
車に戻り、詳細に確認すると、やはり「そこにいた」ことが分かった。
「想像や妄想」すなわち第六感と物的な証拠が結び付くようになっているのだが、徐々に正確になって行くようだ。
この辺、この時期の画像は不鮮明なので、他人に説明するには足りないが、そんなことはどうでもよい。自分一人が分かればよいという性質のものだからだ。
他者と交流を図るためにやっているのではなく、自分自身が「どう死ぬか」「死後どうすればよいのか」を考えるためにやっていることだ。
画像を見ていると、「苦痛を取り除いてやろうか」という声が聞こえた。
私が「スペードの女王」と仮称している女の放つ声のよう。(名前が分からないので、仮名を点けて呼んでいる。)
「とりあえず今の痛みが引いてくれると助かる」
誘惑を覚えるが、でも、コイツは悪霊の仲間だ。
現世利益を振り撒くのは、大概、悪霊のほう。さしたる治療もせず、病気を治してくれたり、大金が転がり込んで来るのは、実はあまりよいことではない。
この世での恩恵は、あの世でそのツケを払うことになるからだ。
病気は治療で直し、お金は働いて得るのが、最も無難な生き方だ。
昨年、大腸に腫瘍が出来、潜血反応が出て、下血するに至ったのだが、さしたる治療をせずに治ってしまった。その時に感じたことは、「誰かが手を出して治した」ような気がしたということ。
「まさか、コイツだったりするわけじゃないだろうな」
今は「御堂さま」もトラも見当たらないから、幾らか心細い。
ま、土曜には検査があり、仙骨に腫瘍があるかどうかはそこで分かる。
ここに出来る腫瘍はやっかいなことが多いのだが、治療で治るものなのか。
原因が悪性腫瘍によるもので、それが分かってひと月半後に亡くなった人のことを知っている。
自宅に戻り、PCで画像を確認していると、そこでもう一度、「治してあげようか」という声が響く。
だが、もう片方で「止めなよ」という声も聞こえる。
自身の良心の声なのか、あるいは他の誰かの声なのか。
確実に言えることはただ一つ。
黒づくめの女は、来るべき災禍の象徴だから、こいつが降り立つ時には、必ず沢山の人が何らかの被害に遭う。
コロナはもうひと波、前よりも大きな波が来るのではないかと思う。ま、最後のは私の憶測だが、二月にもこの女が現れているから、あながち無視はできない。