◎「亀」と「豚」の違い
今日は通院日。
オヤジ看護師がベッドに来て、「体調はどうですか?」と訊くので、「ちょうど屠畜場の柱にぶら下がった豚みたいな心境だね」と答えた。
要するに、「もう死んだも同じ」ということだ。
するとオヤジ看護師の導火線に火が点いたのか、昔話を始めた。以下はその概要。
看護師になり立ての頃、実験用の血液を集める目的で、屠畜場に行かされた。
牛を屠るのには電気ショックを使うから、一瞬で牛は死んでしまう。
すると数分のうちに、牛の後ろ足を固定し柱にぶら下げる。その上で、最初に牛の頭を切り落とす。
それで首元からドバっと血が出るので、その下にバケツを差し出して、血を受ける。
そんな段取りだったようだ。
「バケツに凝固抑制薬を入れるのを忘れたので、病院に戻る時には血が固まってしまったんですよ。そこでもう一度屠畜場に戻り、またバケツです」
そこで、当方は子供の頃に父に連れられ、屠畜場に行った時の話をした。「ドアを開けたら、何十頭も豚が下がっていて」という話だ。
「可哀そうなのだが、毎日食っているものだし、『残酷だ』などとは口に出来ない。せいぜい、可哀想だ、までだね」
肉牛農家が親戚にいるが、屠畜場に連れて行かれる朝には、牛の方もそれを悟り、ひたすら泣き叫ぶ。
気配を感じ取るわけだ。
この辺、「可哀そう」と「残酷」は言葉を口にする者の立ち位置が全然違う。だから、「残酷だ」と言おうものなら、当方は嵐のような嫌味を投げると思う。
週に三四度は牛か豚か鶏を食うくせに、何が残酷だよ。
とまあ、スイッチが入ったので、隣近所の女性患者たちは、今日もかなり「退いた」と思う(快笑)。
またもや、「毎日が苦戦の日々」の状態に突入したから、正直、「自分は屠畜場の柱に吊り上げられた豚」と変わりないと思う。
ちょっと前までは、患者の本人確認をする時に「お名前を言ってください」と言われると、「グズでのろまな亀です」と答えていた。
しかし、今は紛れもなく「柱にぶら下げられた豚」だ。
これも意味が全然違う。
ちなみに、若い看護師なら「のろまな亀」と言われても、今ではまったく通じなくなっていると思う。
明日はどうしても神社に行く必要ができた。
家人の枕元に、毎晩、「誰か」が訪れるので眠れないそうだ。そっちの処理はダンナの担当。