日刊早坂ノボル新聞

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◎十二月一日の「もう一人の私」の再検討

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令和二年十二月一日撮影

◎十二月一日の「もう一人の私」の再検討

 一日に撮影した「もう一人の自分」は、ことによると命に関わるかもしれんので、重ねて検討を加えて行くことにした。

 二年前に伊豆の旅館のガラスに、「私のふりをした影」が映ったが、私とそっくりな顔をしていた。ただ、その時の私は裸眼で室内で息子が構えるカメラを見ていたのに、私の後ろにあるガラスには、私の顔が映っていた。後頭部が映るべきところなので、誰でも「異常」だと分かる話だが、ご丁寧にその影は眼鏡を掛けていた。

 悪戯をしたのか、よほど気付いて欲しかったのか。

 

 今回の人影も状況はほぼ同じ。

 他に人が居ないところで、ガラスに映る自分自身を撮影したのだが、少し離れたところに私とそっくりな服装をした者が同じようにカメラを構えていた。

 殆ど透明に近い状態なので、私自身でなければ気付けなかったかもしれん。

 あるいは、最初に「二重映り」を疑うわけだが、ガラスの継ぎ目は無いし、カメラを持つ両手の構えが違う。

 また、詳細に見ると、全身のあちこちに眼が開いている。

 人影がかなり沢山集まって、一人(私)の姿を形成しているように見える。

 

 この画像は全編がおかしな部分ばかりで、ごく薄い人影は各所に見えているし、獣(犬)のようなシルエットや、手先のようなものまで見える。

 外見的に最も異様な者は、やはり「私とそっくりな者」で、あちこち眼だらけ。

 体に「百の眼がある」妖怪、すなわち「百目鬼」が思い出される。

 ちなみに「百目鬼」とはこんなヤツだ。

 

◆兎田の百目鬼(どうめき)◆ 以下ウィキペディアより引用(一部編集)。

 大曽(宇都宮市大曽)を通りかかった藤原秀郷の許に老人が現われ「大曽村の北西にある兎田という馬捨場]にゆけ」と告げた。そこで秀郷がその地に向かったところ、十丈はあろうかという大きさで、百の目をもつ刃のような髪の鬼が姿を見せた。

 秀郷はすぐさま弓を射ってこれを退治したとされる。

 矢を受けて去った百目鬼は明神山で倒れたが毒気と炎を放ちつづけ、本願寺の智徳という僧の法力によって成仏をするまで、人々を困らせていたという。(ここまで)

 

 

 ここで「明神山」と聞いて「どこかで聞いたことがある」と思ったのだが、過去に『明神山奇譚』という作品を九分方まで書いてあった。

 奇譚シリーズだけに、井ノ川円了と森下林太郎が鬼を退治する話なのだが、源は『無情の雨』にある。

 赤虎一行は地獄の釜の蓋を閉じるために怖れ谷に赴くが、その途中で、明神山の麓の村に立ち寄る。そこは、豊作祈願のために、村人から「御柱さま」を選び、それを人身御供として焼き殺す。そんな村だった。

 

 なるほど、「少なからず『明神山』とも縁があったのだな」と思う。

 ただの「その場の思い付き」ではなく、きちんとした出典(伝説)が存在していたわけだ。

 そう言えば、『怖谷奇譚』に、頭が女で胴体が蛇という「人首大蛇」を登場させたのだが、まさにそれとぴったり外見の合致する化け物が昨年の画像のどこかに残っている。

 子どもの頃から、頻繁に「亡者の群れに追い駆けられる夢」を観て来たのだが、その夢からエッセンスを得ていたのだろうか。

 

 大半が出来ているので、このシリーズも早急に完成させたい。

 これも時間との戦いになる。

 

 さて、この画像で最も「気色の悪い」のは、「左手の先だけが写っている」箇所だ。

 体の一部分だけがかたちに現れるのは「念が籠っている」ことを示すものだ。

 こういうのは、気を付ける必要がある。

 「念」で成り立っているものは、物理的な力を出すことがある。

 学生の頃に、バイクで校門から出たのは良かったが、右手首を「何か」に掴まれ、まったく動かすことが出来なくなったことがある。私はそのまま道路の反対側のガードレールに激突し、ハンドルが90度折れ曲がってしまった。

 やっとのことで家に帰ってみると、右手首に誰かに掴まれた「手の跡」が青黒く付いていた。指の形が残っていたので、疑いはない。

 

 いずれにせよ、まだ死ぬわけには行かんから、「アモン」ら「お友だち」総動員で対処しようと思う。「ベラさま」も私に悪意はないようだし、「味方」の立ち位置に立つことにした。本質は「悪霊」なのだが、こういう時は役に立つ。

 外出する度に、まるでツアーガイドみたいに幽霊を引き連れて帰る状態だから、敵にするより味方にした方が楽だ。もちろん、一瞬たりとも気は抜けない。

 

 追記)

 こういうことの総てが、五六年前に始まった「お迎え」の一環だと思う。

 要するに、少しでも気を抜けば「連れて行かれる」ということだ。

 第三者から見れば、こういうのは「死期の迫った者が妄想を見る」という「漱石シンドローム」に他ならないのだが、ただの妄想ではなく、ソコソコ「実際にそれがいた」という記録が残る。

 まだ実体のない影の段階で気付き、私から「俺はお前を見ているぞ」というメッセージを送っているので、今はそこで足を止めている。

 いつかは必ず連れ去られるわけだが、「もう一人の私」にせよ、「魔物」にせよ、実体化した時が本番だろう。

 

 徐々に「死後の世界」が見えて来たので、絵空事ではない怖ろしさがある。

 あの世の者を目にすると、途端に現実世界の人間関係でトラブルが生じたりする。やはり悪影響を引き起こすようだ。

 悪夢ばかり観るのも、影響のひとつだと思う。