◎燐寸(マッチ)のラベルコレクション
病的コレクターの私は、燐寸のラベルを数千枚持っている。
この中心は、コインやアンティークの買い入れを行っていた時に一括で買ったものだ。
コレクターは男性で、海軍造兵廠だったか海軍工廠(舞鶴)に勤務していた。この方が九十幾つで亡くなった折に、遺品整理を頼まれて買い取った。
そういう経緯になる。
明治以降、昭和四十年台末まで、おそらく自身が立ち寄った先で貰ったマッチのラベルを集めていたものだと思われる。
帳面にびっしりと貼り付けていたので、微温湯に漬けて糊を剥がしたのだが、二割くらいは剥がしにしくじってしまった。
昭和十八年から終戦までは物資が不足して、粗悪な品物しか使えなかったから、微温湯で紙自体が溶けてしまったのだ。
ま、こういうのは実際に経験しないと、体感的には分からない。文字で憶えた知識とは、まったく別の感覚があり、こういうのがあるのとないのとでは全然違う。
オークションみたいなので買い集めるから、何時までも無知のままでいる訳で、コレクターが何時どうやって集めたかを詳細に訊くことで、文字テキストをはるかに超える知見が得られる。
いつもクイズ番組を小馬鹿にするのは、どれだけ「文字知識のコレクションを貯め」込んだところで、実践的な知識は得られないからだ。単語の記憶量を競ったところで、そこまでの話。
さて、マッチラベルの八割以上は、飲食店や旅館、商店のものだ。
すなわち、かつて広告媒体としてマッチは有用な媒体だった。
これが「箱に直接印刷する」ようになり、貼り付け方式のラベルは姿を消した。百円ライターが出来るとマッチ自体が不必要になった。
そうなると、広告媒体としてのマッチラベルの寿命は、ほぼ百年弱だった。
最もマッチラベルがきれいだったのは大正の初めだ。
まさにロマンとデカダンスの時代で、思わず見とれてしまう。
この買取の時に困ったのは「相場が無い」ことだ。
市場が無く、買い手があるかどうか。
ま、枚数が枚数だし、収集に五十年はかかっているから、ごく労賃で「十万」と評価した。分からないが、それなりの価値や意義が見える品には、文句が出ないようにこの値段を付けていた。
「蔵ひとつ」相場は「百万」だが、それも景気の良い時の話で、中にはこれといった品が無いことの方が多いから、今は無理だと思う。
めぼしい品は既に抜かれている。
いまだに「しくじった」と思うのは、「満州から帰った父親の遺品」として、「満州切手全揃い」を買わないかと問われた時だ。
先方に「とりあえず値を付けてくれ」と言われたが、切手相場が最低水準の時だ。滞貨になること必至なので、正直、買いたくない。
相場も無いので、「十万」でも「五万」でも嫌なのだが、「二万」ではきっと売らない。
結局、見合わせたのだが、後で考えると、高額の切手はカタログ相場では評価できないくらいの希少さだ。
ちなみに、カタログ評価などは、「買い手があってこそ」なので、さしたる意味はない。
実勢とはまるで違うことがある。
それでも、売買でなく、史料価値を考えれば、買い取って置き、博物館に寄贈すればよかったと思う。
これを仲介したのが青森の古道具商だったが、四か月後くらいに訪れると、もはや閉店していた。
よく分からぬものに飛び込めぬのは、結局、知識が足りないということだ。
他人、多くは先達だが、その足跡を辿ることしか出来ぬのでは、「退化」するだけだ。
一部の「大家」だけが先に進めることになるが、「大家の存在は、退化をもたらす」という言葉もある。
これというものに出会ったら、相場がどうのとは考えず、勝負に出るべきだ。それが出来るだけの経験と知識を積み重ねろということ。
借金してもでも、出る時は出なくては、こんな風に数十年経っても後悔する。