日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎自分なりの信仰を持つことの大切さ(611)

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令和三年十月二十日撮影

◎自分なりの信仰を持つことの大切さ(611)

 やはりこの時期は、一年で最も「あの世」が騒がしい時期らしい。

 今朝、家人と息子を駅まで送って行き、自分だけ家に戻った。

 玄関の扉を開くと、中から「がったーん」という音が響いた。

 もちろん、家の中には誰もいない。

 音であたりを付け、浴室に行くと、バスタブの上に載せる蓋が外側に転がっていた。

 バスタブの上に載っていたヤツだから、内側なら十センチ、外側なら五十㌢ほど横にずらす必要がある。

 「こりゃダメだ。全然良くなっていない」

 朝から歯科医の予約があったのでまずはそれに行き、そこが終わると、急いで能仁寺に向かった。まずはあの寺でゆっくりとご供養をし、お不動さまに日頃の守護の謝意を述べねばならない。話はそれからだ。

 

 これ迄の経験で、「不味い展開」がどう進行するかは分かる。

  • 自分にしか見えぬもの(幽霊)が見える。これは「死期の迫った者」の観る妄想と事実上、同じものだ。単に頭の中だけで生じた妄想かもしれんし、実際にそれが存在するかもしれん。だが、意味は同じで「死期が近い」ということだ。

 どれが真実かを考える前に、対策を打った方が早い。

 同じものが他の人にも見える場合は、それほど心配しなくともよい。自分がターゲットと定まっていないことが多い。単に「悪縁除け」をすればそれで済む。

  • 自分に呼びかける声が聞こえる。

 「凸凹ちゃん」、「◇〇君」、「(親など肉親の声で)○×!」と名前を呼ばれる。

 これはつい前日にあった。

  • 物理的な異変が起きる。物が不自然に倒れたり、棚から落ちたりする。

 本棚から書籍が抜け落ちる、といった、ホラー映画によく出るような出来事だ。

 

 このうちの二つの要素が現れたら、すぐに対処する必要がある。

 自分、もしくは自家の信仰に従い、先祖にご供養を施すこと。神に守護を祈願すること。

 仏や神が手を出して助けてくれることはないが、精神状態が落ち着く。冷静になれば、この世の者に対するのと同じやり方で丁寧に相対することが出来るようになる。

 怒りや恐怖などの負の感情を抱えていると、そこに付け込まれる。冷静であれば、自我・自意識が安定する。

 

 山門から坂を上る途中、昨日は上がれたのに、どうにも足が前に進まない。

 それで「ああ、昨日、連れ帰っていたのだな」と実感した。

 私がそこに行くことを拒んでいるのだ。

 お焼香の後、能仁寺のベンチにしばらくの間座って景色を眺めた。

 次第に精神状態が元に戻って来た。

 幾度も夢に観たお不動さまのことを思い出しているうちに、「きっと大丈夫」だと思えるようになって来る。

 やはり信仰は必要だ。「自分は独りではない」と思うことで、力が湧いて来る。

 私の場合は、自分なりの経験から得た「オレ(俺)教」なのだが、心の中心には不動明王(の理念)がある。

 

 帰路は、自分の状態を確かめるためにいつもの神社に参拝した。

 昨日よりははるかに良くなっている。

 よく分からぬ光が出ているが、悪意を感じないので、それが何であっても問題はない。

 左右の手のサイズが合わぬのは、右手に何かが被さっているからだと思う。

 「子ども」ではないのか。

 いずれにせよ、程なく分かるようになる。

 

追記)最初にこの手の現象が始まった時には、自分自身でも「俄かには信じ難い状況」だと思った。それがあるので、経験の無い人が「信じ難い」気持ちも理解できる。

 こんなのアリエネ-。

 だが、いざ始まってみるとどんどん起きるようになる。

 目の前の相手の対処を考えるのが優先されるので、他の人がどう思おうがどうでもよくなる。

 私の母にも同じようなことが起きていた筈だが、母は「他人には理解出来ない」と思ったのか、ひと言も他言しなかった。

 「第六感は遺伝する」というのが定説だが、それはこれが「能力」などではなく、「可視域や可聴域の幅」という「身体的特徴」に関わることだからだろう。身体に関わることなら遺伝することもある。

 その母は午前二時には必ず目覚め、息子の顔を見に来た。たぶん、私が眠っていても同じことをしていた。

 「訪問者」は、概ね夜と昼の二時から四時の間に来るので、きっと母は私の顔を見て幾らか安心したと思う。

 その意味では、私でも幾らか母の足しにはなったようだ。

 

 今は私のところにも頻繁に「何か」が来るようになった。

 「防戦一方」の日々だが、なあに半分くらいの者は似たようなことを経験することになる。ある程度予期し、準備を怠らぬと、幾らか死期を遅らせることが出来る。

 まずは「恐怖感を持たぬ」ことが必要なのだが、やはり時々、恐ろしさを覚える。

 「自身の力では太刀打ち出来ぬかもしれん」という類の恐怖感だ。もちろん、「慣れ」によってその軽減は可能だ。