日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎完治した

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◎完治した

 昨年の春に大腸の具合が悪くなった。常時、激痛を覚え、時々、救急センターに駆け込まねばならんほどだ。

 括約筋が締まらなくなり、「おしめが必要になったか」と思った。もちろん、そんなのはどうしても嫌なので、家から出ずに過ごした。

 秋には下血が始まり、潜血反応がバリバリだし、パンツが真っ赤になるくらいの下血が起きた。

 母が大腸がんで亡くなっていることもあり、「ついに俺も」と思う瞬間だ。

 以後、内視鏡等の検査を拒否し、痛み止めだけを飲んでいた。

 昨年春から秋の惨状は、知る人ぞ知るだろう。

 

 それが、春先に±に転じ、その後2回の潜血反応検査では、いずれもマイナスだった。

 ずっと、医師に「検査して治療しなくちゃダメですよ」と言われていたのだが、昨日は初めて「ガンもポリープもありません。検査もしなくていいです」という所見だった。

 

 その間、何をしていたかと言うと、「何もしていない」。

 ただ、「信じていた」だけ。

 「何かしらこの世で果たすべきことがあるなら、流れに従えば幾らか死期が伸びるだろう」と見なし、自分に出来ること、すなわち、気付いた場所場所でご供養をして来たわけだが、やっていたのはそれだけだ。

 だが、胆嚢や脾臓の腫瘍、大腸の腫瘍は消滅した。

 まだ前立腺や精巣に腫瘍があるが、たぶん、これも収まる。

 生体機能としては、十年くらい前に崩壊を始めているので、けして健康体に戻ることは無いのだが、死期は先延ばしにはなっている。

 

 三四年前、御堂観音の前で「心臓と腎臓は治せないけど他は治る」と言われたが、実際にそうなった。

 その間のことについては、経過をここに書いて来たわけだが、「信じた」だけだ。

 これは言葉で書くのは、かなり難しい。

 「信じる」のは「願う」のとはまったく違う。神社やお寺で「治ってください」と祈念しても、何も変化は起きない。

 ルールに従っていないからだ。

 「自分は治ると信じる」ということでもない。それは「願い」が変化したもの。

 

 自身の今生と死後、再生を見通すことが前提にあるわけだが、「こんな感じか」と信じられるところまで来るのに、何年もかかった。

 知らぬ間に自分なりの修行を展開していたらしい。

 いつも思うが、何万回読経しようが、何千回写経しようが、何も変わらない。「信じる」ことはスポーツではないからだ。

 ものの考え方には、守るべきルールがあり、それに従わぬ場合は努力はただの徒労に終わる。

 

 まずは、浅はかな常識や、受け売りの知識を捨てることから。

 「自分の眼で見て、耳で聞く」ことが始まりとなる。

 その意味では、ほとんどの人は、眼と耳を塞いでいる。あるいは、ほとんど意味のない絵空事の世界観や死生観に縋っている。

 

 あと幾ら時間が残されているのかは分からないが、救える人(または魂)を救おうと思う。

 もちろん、この「救う」というのは、今生の中での幸福をもたらすことではない。

 現世の利益など、魂の安寧にとっては、ほとんど意味のないものだ。