日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「年末盆回しの品評 その3」

◎古貨幣迷宮事件簿 「年末盆回しの品評 その3」

 まずはOさんの思い出から。

 NコインズO氏は南部古泉研究会の立ち上げに寄与された方で、コイン商であると同時に古貨幣や骨董の収集家でもあった。私を古銭会に誘ってくれたのもO氏で、この世界では先輩であり師匠でもあった。

 私はたまたま東京で事業を展開していたので、古銭会が終わると、花巻の「やぶや」で二次会を行い、そこから店舗に移って、さらに三次会になった。今度は二人で古貨幣以外のビジネスの話をした。

 一時、私は中国人の知人と共に、中国で牧場を開き、高品質の和牛を育てる計画を検討していた。もちろん、正規ルートで、和牛の種や牧場経営については、日本側にマネジメント料を払うというれっきとした業務提携だ。ただ、時期的に中国での口蹄疫や日本でのBSE問題があり、やり取りが出来ず、停止したままになった。

 その話をすると、O氏は多大な興味を示し、「いざとなったら私も参加させてくれ。幾らの資本を提供する。私は英会話も出来るから」と具体的な金額を上げて申し出てくれた。

 当たり前だが、「まだ計画の立案段階ですので」とお答えしたのだが、Oさんが亡くなられた後、ご家族に聞いたところでは、その金額はOさんが別途預金していたお金の総額だった。

 改めて「ここという時には勝負を打つ人だったのだな」と感服した。事業を起こす者には、共通の性向があり、圧して出るか退くかの決断がはっきりしている。

 その時に、Oさんは自分の昔話をしてくれた。

 Oさんは終戦直後、米軍基地の軍属として働いていた時期がある。その頃に朝鮮半島に渡ったことがあるが、古道具屋を覗くと常平通寶の母銭が山ほど置いてあった。

 価格は幾らでも無かったが、これを日本に送ると一枚が三千円くらいの値が付く。

 それが何千枚かの規模なので、ちょっとした財産になる。

 だが、当時は戦後のゴタゴタの時期で、半島から持ち出し、日本に送る各時点でトラブルが生じる。輸入の許可不許可や関税などだ。

 さて、これを回避するにはどうしたらよいか。

 この辺からの知恵の絞り具合の話がすごく面白かった。

 ここには書かぬが、「横田基地などで働いた」という経験から、Oさんは英会話が流暢に話せた。私の家人は外国籍だが、初対面からOさんが英語で話すので、「年配の日本人では珍しい」と驚いた。

 外国人とのビジネス提携に関わるのを恐れぬところは、米軍基地での経験があったからということだ。

 

 さて、そのOさんは、花巻の旧店舗の二階に、売り物にはしない自身のコレクションを保管していた。よく窃盗に入られなかったと思うが、既に倉庫になっており中が雑然としてたから、金品があるようには見えなかったのだろう。なお、旧店舗を店舗として使っていた時には、一階の商品を盗まれたことがあるようだ。骨董関係の窃盗犯は、最初に客として下見に来てあたりを付け、次に夜中に盗みに入る。  

 旧店舗の二階には、古びた箪笥が置いてあり、この下の方の引き出しに希少品が入っていた。あまり開いて見せることが無かったのだが、地元の人の中には、見せて貰った人もいるだろう。

 その中には、南部天保の初鋳の大型銭や母銭、北奥の地方貨などが雑然と並べられていた。

 たまに、資金繰りのためなのか、その中の品を出して売ってくれることもあったから、関係をよくして置くに越したことはない。当時は私も事業者でお金の融通が利いたから、請われれば付き合った。

 ま、「今回は付き合ってくれないか」と言われる内容が、「文政一分金を三十枚」みたいな話だったので、なかなかしんどい。当時は六十万から先の金額だが、それを単に付き合いのために投資することになる。じっくり売れば二年くらいで処分できるわけだが、その間、自分の資本が眠ってしまう。

 だが、見返りも必ずあり、これという品は最初に案内してくれる。私はたぶん、収集家なら最初の三人の中に入っていたと思う。

 ただ、Oさんに対し、自分の方から「これを売ってくれ」と申し出たことはない。これも事業者としての習慣で、物を頼むと必ず見返りを用意する必要が生じるから、「売り物です」または「買わないか」と言われた時だけ考えるようにしていた。

 収集家にたまにいるが、一方的に「自分だけが得をする話」を要求して来る者が居る。思わず「それで俺には何のメリットがあるのか」と思ってしまうが、物を頼むにはそれなりの返礼(お互い様)があることを知らぬようだ。だが、人が厚意で見せたコインブックから、平気で抜き取って行く者も「ざらにいる」から、普通に売買しようというならまだましな方だ。

 

 やや脱線したので話を戻すと、そんな風に「取り置き箱の中」から出して譲ってくれた品のひとつが、この「南部大型布泉」だ。

X005 南部大型布泉

 南部地方の「布泉」と言えば、割と知られた希少絵銭で、幾つかの銭譜に拓本が掲載されている。ところがその拓本にはどれも同じ銭のものが使われているから、実際には存在数が数点だけだったようだ。いずれも真っ赤な南部の地金色をしていた。

 別に黒っぽい「浄法寺鋳」と称される鋳放銭が売られており、これを持っている人も幾人かいると思う。だが、実物を見ると、砂笵や地金に疑問があり、極めて関東のO氏作の製作に酷似しているように見受けられる。

 「O氏作」とは、「研究のために製作するのであるから試作品には朱漆で印をつける」とした、あのO氏作のことだ。ちなみにこの言葉は嘘で、しっかり売られている。

 同じ出来には、かなりの希少品もあるから注意が必要だ。

 これに気付いた所有者は、「気付かぬふりをして」幾らか安値で入札に出し、つけ回しをする。こういう時には、証拠を捉えるため、偽物と知っていても購入せざるを得ないから、偽物を本物に近い値段で買わざるを得ない。

 検証が終わった品は地元に送ったが(寄贈だ)、他県の入札で地元の人も買っていたりするから、「地元から出た品」もよく経緯を調べる必要がある。

 

 この大型布泉はO氏が「たぶんこの品だけ」と言っていた品だ。製作を見れば、ひと目で南部絵銭であることが分かる。そもそも本家の中国の銭籍にこの型はないし、もし新発見の中国銭なら、市場価は数十倍の桁になる。

 大型銭でもあり、輪側は「一枚仕上げ」だったのか、縦方向の線条痕に加え縦横に傷が見られる。鋳所の判定は難しいが、「南部布泉」としては疑いない。

 継承する人がまだ出て来ぬところは、銭譜などに掲載されていない一品ものだからだろう。収集家の九割は型分類を志向しており、従来の旧譜に掲載が無いと不安でたまらなくなり、手を出せない。

 「旧譜に従って集め、その次に変化形を調べて、細分類を作る」というのが一般的な収集家の姿だ。

 でも、同時にそれは製作では判断できないという意味なのだが、実際、通貨の寛永銭ですら、大迫なのか栗林、橋野銭の区別がつかない人が殆どだ。

 

 実は、南部絵銭は、寛永銭の収集と研究にとって重要なジャンルになる。

 これは、盛岡藩では「多くの公用(公営、請負)銭座で、絵銭も作られていた」ことによる。

 各銭座固有の絵銭種が分かっているから、絵銭の仕上げ方法を調べると、寛永母銭のつくり方との共通点を探すことで、「どの銭座でどの銭種を作った」かが導かれることになる。

 正確には、1)銭座固有の鋳造方法があり、2)これが確認出来る品については、3)鋳所を推定出来る場合がある、ということになる。

 通用鉄銭については、鋳所判定が難しい場合も多いが、銅母銭については、ある程度の推定が可能である。

南部大型布泉

 当品は今のところ現存一枚の品になる。これが五枚確認されれば、おそらく位付けが「1」となり、南部の希少絵銭として認知されることになる。

 「半値出し」なのに手を挙げられぬのは、結局はこのジャンルに目が利く人がいないということなのか。

注記)一発書き殴りで、推敲も校正もしません。これを記すのがしんどい状態なので、当たり前です。