日刊早坂ノボル新聞

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◎ヤツが戻って来た

ヤツが戻って来た

 数日前から、PC脇の受話器がまた「プリン」と音を立てるようになった。二か月ほど音無しで反応がなかったが、画面が点灯したりするので、「たまたま」起きたことではないらしい。

 ちなみに、コロナ全盛時に、経費節減のため一回線を減らしたが、コンセントを抜くにはPCを動かす必要があり面倒だ。そこでそのまま放置していたから、電源は通じているが、回線は繋がっていない。

 コイツが色々とメッセージめいた信号を送って来るのは、これまで散々、記録を残して来た。

 

 昨日の出来事はさらに一つ進んでいた。

 通院から帰り、居間で横になっていたが、そのまま寝入ってしまった。治療がなかなかしんどいので、当日はほとんど横になっている。

 スマホで連続再生にして音楽を聴いていたが、時々、そのスマホが体の下に入り、その圧力で画面がひび割れることがある。実際、今のスマホにも少しヒビが入っている。

 これを避けるために、二㍍ほど離れた卓上にスマホを置き、イヤホンで聴いていた。

 そのまま眠り、その後もイヤホンは耳に入れたままだった。

 すると、睡眠中に「ぷるるん」と着信音が響き、目が覚めた。

 スマホを見ると、連絡相手は家人だ。

 留守電に切り替わったので、折り返そうとしたが、二度目も繋がらなかった。

 

 後で聞くと、家人はこの時電車の中だったそうだ。

 「だから出られなかった。なんで二回も電話したの?」

 えええ。最初のはお前が掛けて来たんじゃないのか。

 スマホを確かめると、実際、私のスマホから電話を掛けていた。

 

 「一体誰が掛けたのか?」

 スマホは二㍍は離れた場所にあった。このため、「偶然タッチした」という事態は有り得ない。

 そもそも、電話を掛けるには「連絡先」から選ぶか、「着歴」を開いて相手を選択するという二重のタッチが必要だ。偶然ではあり得ないし、起きない。

 

 どうやら、卓上電話と重ね合わせると、「今は傍に誰か(何か)がいる」と思った方がよさそうだ。

 このところ、まったく「あの世」を感じない暮らしをしており、殆どお寺や神社に行かずとも良くなっていたのだが、また始まりそうだ。

 実際、「近くに誰かが立っている」という気配も感じる。

 

 スマホで思い出すのは、既に一昨年の出来事となった、あの「稲荷事件」だ。この時には、元々、相性の悪い稲荷の神域に、それと気付かずにうっかり立ち入ってしまったことで、稲荷の「眷属」に憑依されたようだ。

 一度、画像に赤黒い僧侶の顔が残ったことがあるが、見る側に悪影響をもたらしそうな表情なので、すぐに画像を廃棄した。悪しき内容の画像なら、それを保持し続けることで障りの原因になるので、気が付いたらすぐに捨てるのが得策だ。供養などを考える前に、まずは引き離すことが肝要だ。

 その後、毎月げそげそと体重が落ち、結果的に十二キロ以上痩せたが、同時に色んな変事が起きた。

 スマホが「勝手に話し出す」というのも、この流れの中で起きた出来事だった。

 「たまたま」の可能性を検討したが、スマホ接触の具合によりグーグルアシスタントが自動で立ち上がり、案内を始めたりすることはよくあることらしい。だが、スマホ音声認識のアシスタントは、声質が決まっている。男女とも成人の三十台から四十歳くらいの設定になっている。

 私の事例では、「しわがれた老人(男)の声」で、いきなり「憑いた。憑いたぞ」と叫び出したのだ。

 音声認識が自動発生すること自体は、誰の身にも起きうる事態だが、しわがれた男が出ることは、有り得ぬことなそうだ。

 あまりにも現実離れしたことが起きると、人間はそれを信じずに別の要因を探す。

 その時点では、私も機械に起因する症状を疑ったが、もちろん、そんなのは起こり得ない。

 (この瞬間、脇の電話が「チリン」と呼応した。)

 今回の電話の発信も、一切手を触れていないに、スマホの通話を立ち上げ、登録者から家人を選んで発信するという二段の操作をしている。偶然ではあり得ない。

 

 ま、こんなことは当事者でなければ伝わらない。

 昔からこの手のことは身辺でよく起こったが、従前は一切口をつぐんでいた。

 五六年に渡り「あの世観察」を続けて来たわけだが、割合、TPOが分かって来たことと、「憑依される時の体感」に通じて来たので、今はそこそこ「出して見せられる」ようになった。

 この状況であれば、自分に起きている出来事を隠す必要はない。

 何なら、お前の後ろのも出して見せようか。(これは電話チリンの主の言葉だ。)

 

 画像は昨年撮影したものだが、直前で「蜘蛛の糸が頭にかかる」感触があった。

 その後で神社に移動し、ガラス窓に自分自身の姿を映して撮影すると、実際に背後に女がへばりついていた。この時には、はっきりとした違和感があったから、出先からすぐに神社に直行し撮影した。

 朧気だが、幽霊は「光の波」が普通の反射光と表裏の関係にあるらしく、ひとの姿と重なると、人間の姿(か両方)が消えてしまう。要は相殺するということ。波の性質と同じだ。

 これを見る人の多くが、私の肩に頭を 載せている女性の姿が見えると思う。

 頭の部分が当方と接触しているので、私の肩と女の頭がほとんど消えている。

 目だけで見る分には、「見えない」とする者の気持ちもわからないではない。私は直に触られているので、これで「いない」と言えば、底抜けの阿呆になる。

 

 いつも記す通り、幽霊は感情だけの存在で、感情は性質的に波と同じ特性を持つ。よって、同じ波があれば、それと分かるし、共鳴する。共鳴の先には同化があり、同じ思いにとらわれたままだと、幽霊を丸ごと取り込んでしまう。「憑依」の本質は「共鳴と同化」だ。

 私はいつも亡くなった母のことを想い、幸福を感じさせてあげられなかったことに、常に負い目を感じている。この女性も恐らく、死んだ後も同じように親に負い目を感じつつ彷徨っている。

 

 同じ神社の同じ位置で撮影した今年の画像では、事務服の女性がほとんど重なって立っていた。

 このせいで、私の左半身がほとんど消失したが、前述のとおり「波」としての特性による。

 この女性は、一時的に私に寄り憑き、重なったのだが、心(心情)に接点がないので、すぐに離れたようだ。なお背丈のサイズはあまり関係が無く、大きくなったり小さくなったりする。その要因はまだよく分からない。

 こういうのは、気分転換をして、「自分を顧みつつ前向きに生きる」ことを心掛けるだけで、相手は共鳴できぬので、分離が容易となる

 死霊祓いのお祓いなどは不要で、他力を頼る思考は、逆にむしろ害を招くことがある。

 自分自身をよく見直し、自力解決を心掛ける必要がある。

 

 霊は「こころ」で成り立っている。あなたにも「こころ」があるし、あなたが存在していることに疑いはない。なら「霊が存在しない」と見なすのは、自分自身の存在を疑うことと同じ。

 「霊が存在しない」というのは、「ひとにはこころが無い」と言うのと同じナンセンスな話だ。

 ちなみに、こういうことは驚くには値せず、怪談の類でもない。私だけでなく、誰の身にも起きている。私はたまたま相手を認識し、撮影する方法を見出しつつあるだけの話だ。

 何時も記す通り、霊感はあっても霊能力などと言うものはない。誰にも霊感はあり、それをよりよく認識しているか否かの違いでしかない。

 

 脱線したが、今回戻って来たのは、過去にも近くにいた者だろうと思う。

 近日中にそれが誰なのかを確かめようと思う。

 

追記1)二枚目の「事務服の女性」は、私を頼り、縋りついているのが歴然だ。他の人なら自分を認識すること自体が出来ないから、気が付いてくれそうな者に頼ろうとするのは当たり前だと思う。
 私の体の接触部分が消失している。
 なお、女性には頭が無いから、これは人間ではないと分かる。