日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎ドキッとした理由

◎ドキッとした理由

 前日の八幡さまの画像で少しドキッとしたのは、逆光でもないの光雲が出ていたり、日陰なのに光が差していたりしたことだ。

 ちなみに、「光雲」は太陽光がレンズに反射したり、湿気を捉えたりして出来る煙のような光のことを言う。レンズに太陽が映る場合は丸くなるので「日輪」と呼んでいる。いずれも自然・物理現象だ。

 

 最初のは、やはり日光の照り返しだと思うが、柱の位置から少しずれているので違和感があった。これがちょうどワンピースに見え、その上に黒い頭が乗っている。

 ま、今のところは「気のせい」だが、いつもこういう感じに、私が同じ場所に立っていると、ざわざわと寄って来ることがあるので、反射的に「また来たか」と思ってしまう。連写すれば、人影の場合は少しずつ私に近づき、最期は抱き付く。

 だが、この感じに「正体を隠す」配慮のない者は、ただ「助かりたい」「助けて欲しい」い一心でそうしているので、丁重に断り、ご供養を施せば何も起きない。

 生きている者と同じで、悪意を抱えた者はなるべく正体を隠そうとする。

 その意味では、自分をさらけ出す者は見た目がおどろおどろしくとも、あまり怖さはない。正真正銘の悪縁(悪霊)になると、最初はよくしてくれるから気が抜けない。

 優しい言葉や、小さい幸運を与え、心中に取り入る。甘い言葉は詐欺師と悪縁の最大の武器だ。

 

 もう一つは「オレンジ色の光」だ。理由のない赤やオレンジ色の光は「悪意」や「怒り」の表れであることがある。これが見えたら、「何か警告があるのかも」ということを頭に置いた方が良い。

 前回もっとも着目したのは、右側のオレンジ色で、景色から浮いているので日光によるものではない可能性がある。

 「何だろうな?」と思った時には、見る角度を変えて眺めると案外簡単井分かったりするが、この部分を90度傾けると、まるで子どもの顔のように見える。

 最近、私は温泉で子どもに会って来たばかりだから、「ついて来たのか」と想像してしまうわけだが、これが顔だとしても、あのことは全然似ていない。

 思い当たるふしもなく、ま、現状では「たまたま」の範囲だ。そうでなければ、すぐに理由が分かるので、今は念のためお焼香をする程度の対応で良いと思う。

 前に幾度か、見た目ではそれと分からぬが、角度を変えると鮮明に人影(顔)が出ていたことがある。実体験があるので、小さな変化も「もしや」と思ってしまう。

 危惧が増えて、考えるべき事案が増すので、このジャンルはあまり経験しない方が無難だと思う。「幽霊は想像の産物で実際にはいない」と思いなした方が苦痛なく暮らせる。もちろん、軽視したり笑ったりするのは禁物だ。死期が迫れば、否応なしに先方から姿を現すので、経験者の話を「そんなこともあるのかも」と頭の隅に入れて置くと、脳がカタルシスを起こさずに済む。

 

 私は「お迎え」に直面した時に、それまでの常識や世界観ががらがらと崩れた。

 それからは、疑念が強くなり過ぎるきらいがあるが、そのおかげでまだ生きていられる。

 廃病院の一件では、足先に小さな血豆が出来てから、それが化膿し両足の半分が紫色になるまでがわずか半日だ。翌日すぐに治療を始めたが、医療はまったく効果がない。

 いつも「そういう時の対処」を心に描いているので、すぐに始められたが、数日迷っていれば、そのまま足を切られるだけでなく、まるごと連れ去られたかもしれん。

 あの世の展開はスピード感が半端ないが、その時になり「これまでの常識は通用しないかも」と思い始めても、もう遅い。リスク回避は、障害が起きていないうちから始める必要がある。

 困難が起きてから神さまを頼っても何も変わらない。 

 

 今回は思い過ごしのうち。だが、警戒を怠ることはない。

 

追記)柱の前の光は、頭の部分が黒いのだが、これが柱を隠している。光の位置が柱とずれているので、日光の照り返しではなく、柱の前が光っているとみられる。
直感で感じた通り、女だと思う。

 昔の人は「幽霊には足が無い」として来たが、画像や目視の時に時々、足が無いことがある。そもそも頭の後ろにはいつも「でっかい女」がいるわけだし、今さら驚きはしない。