◎夢の話 第976夜 異世界にて
まずは前段階がある。
木曜に病院から帰宅すると、家人もちょうど帰宅したところだった。
家人は二階の自室に行き、着替えて来たのだが、居間に戻って来ると真っ先に言った。
「何だか家の中に幽霊が入ったかもしれないよ。あちこちで嫌な匂いがする」
ナマ物が腐ったような匂いがするのは、典型的な「あの世」現象のひとつだ。
すると、居間の扉が「ガチャ」と音を立てて大きく開いた。
「ほら。おかしいでしょう」
普段は常識人の私なので、すぐにそれを打ち消す。
「隙間から風が入ったんだろ。部屋ごとに気圧が変われば、ドアが開いたり閉じたりするものだ」
「でも今日はすごく晴れているし、風も無いよ」
「考えると面倒だし、不安感を与えるのが目的だったりするから、知らんふりをしてろ。大体、求められる度に付き合っていては、到底、生活できん」
それが現実にあってもなくとも、とりあえず「今は知らんふり」をしていろ。
家に入った時に、俺も「声」を聞いているのだが、とりあえず「近所の人の話し声」だと見なして、気にせずにいるわけで。
それから一二時間ほど休憩し、夕食の支度に取り掛かった。
料理はダンナの担当なので、台所に立つ。
シンクの前で野菜の処理をしていると、例によって、カウンターの柱の陰に人の気配がする。
(そう言えば、女房も「誰かいる」と言ってたな。)
でも、今は人事で忙しいから、当然のことながら無視、無視。
しかし、今日の立ち位置は柱のすぐ傍だ。五十㌢先の柱の陰に女が立っている。
おまけに視界の端に姿が入る。
嫌なことに、どうやら全身が焼け焦げているようだ。
頭から黒く焦げているし、肉の焼け焦げる匂いまでする。
家人が言っていたのがこれだ。
ま、「助けてくれ」という話なら、結局は俺のところに集まる筈だ。
こっちは見ないふりをしているわけだが、相手の方は俺が「自分(女)のことが見える」のを知っている。
明治以降、家の中が明るくなった。電灯など照明が使われるようになったせいだ。
裸電球の光は、網膜を焼くから、可視波長域が狭くなる。
それまでの「幽霊や魑魅魍魎が跋扈する世界が迷信と位置づけられるようになった」のは、実際には人間の「可視範囲が小さくなった」ことを指す。
だが、中にはあまり変わらぬ者もいるから、こんなふうに姿を見てしまう者もいる。
ただ単にドアが開け閉めしたくらいなら、「気圧のせい」で話が済むのだが、まともに姿を見てしまうと、やはり事情が変わる。
こういう時に限って、普通はゼロコンマ数秒しか見えぬ筈の人影が、チラチラと繰り返し視界に入る。
思わず声に出して言う。
「俺は忙しいから今は付き合っていられない。何せ今月を越えられるかどうか目途が立っていないからな」
以上は、実際に起きた出来事だ。
夕食と洗い物を済ませ、居間の床に座ったが、程なく眠り込んでしまった。
すぐに夢を観始める。
我に返ると、俺は古びた街にいた。
「ああ。これは夢だ。何故ならここは俺の街だものな。俺が人生体験から得た記憶の断片から再構成されたものだ」
死ねば誰もがこんな風に、自分の作り出したイメージの世界に入る。
幽霊は自らの思い描くイメージの世界を生きているのだ。
「でも、俺はまだ死んでねえな。きっと」
ここで俺は思い出した。
「確か今日一日で、遺品整理の目途を付ける話だったな」
知人の親御さんが亡くなったが、古い品があれこれとある。遺族で分配するには、これを整理し評価する必要がある。だが、遺族には分からぬことが多いし、評価の仕方も違う。
そもそも、コレクションの中には本物ではない品が沢山混じっている。
こういうのは「疑わしきはカウントせず」で、評価対象から外す。
部屋ひとつ分だから、あっさり済むと思ったが、割合長く掛かった。
それどころか、夕方までに終わらぬ可能性があった。
「困ったなあ」と呟く。
すると、部屋の入り口から人が入って来た。
そこにいたのは、俺の父母だった。
「手伝ってやろうと思って、二人で来た」と父が言う。
ここは俺の世界だから、きっと俺自身が創り出したのだろう。実際、手伝いが欲しい。
「じゃあ、葛籠を開けて中を検めて。めぼしい品があれば、俺に言ってくれると助かる」
ま、大体は我楽多の山だ。
数時間で、どうにか値の付きそうな品を区分できた。
そこで父が俺に言う。
「じゃあ、俺たちは先に行くから。後でお前も来い」
だが、部屋の中の葛籠や木箱を大幅に動かしたので、出口が見えない。
そこで父母を窓から出すことにした。俺は用心深い性質だから、予め窓の外に三脚を置いていた。
「じゃあ、外に出たら、道でタクシーを呼んで。俺は後から行きます」
木箱を階段のようにし、母が窓から出る。
だが、母は外の三脚を降りる時に、足を踏み外し、地面に転んでしまった。
「大丈夫か。お袋」と声を掛ける。
転んだ時に母の姿が、母の年齢よりかなり若い女のように見え、ドキッとする。
俺は今まであれが母だと思っていたが、違うかもしれん。
ならこの父も別人だよな。
だが父は平然と俺に告げた。
「あいつのことは俺が面倒を看るから、お前はまずここの仕事を終わらせて来い。あっちで合流し、一緒に飯でも食べよう」
父は木箱を上り、何事もなく外に出た。
その背中を見送りながら、俺は「これは確かに父母なのだが、俺の父母ではないような気がするなあ」と考えた。
俺は一人で仕事に戻った。
概ね「終わった」と思っていたが、まだ納戸に箱が隠れており、割と出来の良い陶磁器と、大仰な箱に入った「偽物の大判」があった。大体、家の資産の状況には上がり下がりがあるから、苦しい時に換金しやすい品が偽物に置き換わる。放蕩息子が一人いると、そいつが持ち出すのは、必ず「家宝の刀」と相場が決まっている。
そんなのをまともに分配し、税金を払っていたら、遺産など税務署に食いつくされてしまう。偽物は偽物。
だが、あれこれと見入っている内に、外が暗くなって来た。
こりゃ不味い。あとほんの四五十分でまずいことが起きる。
「早いとこ、ここを出なくちゃな」
すると、その後にすかさず声が響いた。
「だって、ここにはもう少しで爆弾が落ちるからね」
これは俺自身の声ではなく、三十を少し越えたくらいの女の声だった。
ここで覚醒。
目覚めた時には、言い回しとしてよくあるが、まさに「体が氷のよう」に冷えていた。逆に皮膚感覚としては、物凄く熱い。
これは俺の夢ではなく、あの「焼け焦げた女」が作った世界なのだった。
なるほど、今は八月で、戦争にまつわる出来事を思い起こさせられてしまう。
どこまでが現実で、どこまでが夢なのか。
はっきりと線を引くことが出来ないから、とりあえず、これを記しながらお焼香をしている。