日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎夢の話 第1K37夜 母が立っている

夢の話 第1K37夜 母が立っている

 二十九日の午前三時に観た短い夢です。

 

 長いドライブをして、家家の墓のある墓地の入り口に着いた。

 「コロナのせいで何年も来られなかったな。久しぶりだ」

 実家の駐車場に車を入れ、バケツと花を携えて、国道に出た。

 墓地は実家から二百㍍ほど坂を上ったところにある。

 天気の良い日で、山の方から郭公の啼き声が聞こえて来る。

 新緑が眩しい。

 

 坂道に入る入り口のところまで来ると、何となく背中に視線を感じ、後ろを振り向いた。

 すると、国道の脇に母が立っていて、こっちを見ていた。

 母は黒い着物を着て、ただじっと俺のことを見ている。

 俺は思わずため息を吐いた。

 「ついに来たか。思っていた通りだ」

 最近、喘息の症状が出て、ほとんど眠れない。横になると息苦しくて堪らないから、幾らかでも楽になろうと体を起こしている。半身を立てているから、熟睡出来るわけがない。

 その夢うつつの状態の時に、さりげなく右手を握られる感触があり驚かされる。

 母の手の感触にそっくりなので尚更だ。

 母が亡くなってからは、一年に数度の割合でそんなことがあったが、今春は長く体調を崩したままのせいか、これが頻繁に起きている。

 そこで、「そろそろ本番のお迎えが来るのではないか」と思っていた。

 その母が黒い礼装を身に着けて俺を見ているなら、すなわちそういうことだ。

 

 「お袋と一緒にあの世に向かえば、きっと無難に寛解(成仏)出来る」

 きっと穏やかに消滅して行けると思う。

 だが、ここで俺に問いを投げかける声が聞こえる。

 「お前はそれでよいのか」

 は?それでよいかとはどういうこと?

 「亡者たちのことはどうする?」

 それで思い出した。

 俺は自分が死んだら、「この世とあの世の間で彷徨っている亡者たちを導く」約束をして、これまで命を長らえさせて貰っていたのだ。

 数十万の亡者の「先頭に立って歩く」夢なら、百度と言わず繰り返し観て来た。

 

 「それと整理整頓の務めもあるだろ」

 因果応報が何かをこの世の者に教えるってことだな。

 もし俺が死んで幽霊になったら、きっと俺はこの世とあの世を繋ぐ穴から出て、生者の上っ面を引き剥がす。中身はどうせ悪心だ。包み隠している悪心を表にさらけ出し、そいつの本体が何者かを教えてやる。

 「ま、祟りとも言うけどな」

 親も子も、そして孫にまで報いが及ぶ。

 

 アスファルトの道路から熱気が立ち上り、母の姿がゆらゆらと揺れている。

 このまま母と一緒にあの世に渡るべきか、それとも・・・。

 別の道を進んで悪縁となり、これと見込んだ者の親も子も孫も亡者の中に引き入れようか。

 母の視線を見詰めながら、俺は身じろぎもせずじっと考える。

 ここで覚醒。

 

 死ぬと最初の段階で、「三途の川を渡る」か「死出の山路を越える」選択がある。「三途の川」や「山路」はあくまで表象であって、見え方は人によって違う。物理的な存在ではなく、見る者によって形づくられるイメージだ。

 この時、「死出の山路」を選ぶと、死者の魂は幽界に留まる。半ば生きた者と似たような自意識を持ち、自我の拘束から解放されぬ状態だ。

 思考能力はなく、感情だけで己と周囲を思い描く。

 ひとの心は悪意に満ちているから、幽霊は基本的に悪意で成り立っていると言える。

 そもそも人間の時から性悪なのだから当たり前だ。

 

 毎年、一度か二度は「もう治らぬかも」と思う状態になるのだが、これまではひと月ふた月で、うまくその状態を脱することが出来た。しかし、今回は四か月経っても、寝たり起きたりの日々が続く。

 そしてこの状態になると、心に悪意が満ちて行く。

 私がU人なら、西側にいる筈のPの娘の捕縛に走ると思う。人道にもとる者への返礼は人道にもとる内容が良いと思う。例えば「指を一本ずつ」。それが因果応報だ。

 

追記)極力、欲(食欲性欲・・・)を掻き立てて、生きる気力を取り戻そうと思うが、最近、徐々にめげてきた。まったく息が出来ぬのはしんどい。自分の身になって初めて「分かる」とはこのことだ。おまけにこの他に心臓や腎臓の症状を抱えているわけで。

 「死んでも終わりじゃねえわけだから、もう死んでも」とも思うが、死後にやりたいことをやるのは、要するに「悪縁(霊)になる」ということだ。

 私は母の手を振りほどいて、「一緒には行かね」と言いそうな気分になっている。

 罰を当ててやりたいのが沢山いる。親にも子にも孫にも。